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再び陽菜が彼女に目線を戻したタイミングで演奏が終わり幾人かが手を叩いて彼女の歌声を称えた。
「ありがとうございます。改めまして、りさと申します。不定期でこの場所で歌ってます。今歌った曲はBob DylanのBlowin' in the Windという歌です。」
彼女は目線を下に落したり時々目の前の人々に向けたりを繰り返しながら話した。
「、、わたしは東京の会社を辞めて仙台にやってきました。次の曲はその時私を後押ししてくれた曲です。聴いてください。」
そう言うと彼女は次の曲を演奏しはじめた。温かなギターの音色がアーケードに再び響く。
「おぅ、新人。」
背後から急に囁かれ虚を衝かれた様に陽菜は慌てて後ろを振り返った。クボさん。。
「クボさん!なんでここに!?」咄嗟の事だが目の前の演奏を気遣い、声を押し殺しながら陽菜はクボに言った。
「新人、そんなことよりも彼女の歌に耳をすましたまえ。ありゃぁマーティンだ。」
人の事を驚かせておきながらこの人は会話を征服するのが強引だ。陽菜は導かれるように再び意識を歌声に戻す。
「なかなかしぶい歌を選ぶのう」クボは背後から陽菜の隣へ体を移動させながら言った。
陽菜はクボが隣に来たことで演奏に集中できなくなり話しかける。
「マーティンさんってしぶい歌なんですか?」
「新人、歌じゃない。マーティンってのはあのギターの事さ。D-15M。なかなかいいやつだ。」
陽菜は改めてクボの知識の豊富さに感服する。軌跡というのは歩んだ道筋と同時に経験というメモリースティックのようなもので
クボさんはきっと本当に多くの出来事を経て今に到るのだろう。些細に思える事も積み重なると意味みたいなものが出来るのかもしれない。
目の前の情景をメモリーに刻み込むかのようにクボは腕を組み微笑みながら演奏する彼女を見つめている。今日も彼女は龍の刺繍が入ったジャケットを着ていた。
「テイクミーホーム、カントリーロード。ジョン・デンバーの歌だ。」曲が転調したあたりでクボは言った。
荘厳な山々、その峰からゆるやかに流れゆく川のせせらぎ、歌詞の意味は理解に及ばなかったが陽菜は音色の中に情景を描写した。
歌を囲う様にできた人々の轍の中だけ時間や空気の流れが違う。
曲の転調を経てから歌が突然と耳なじみのある言葉に切り替わる。日本語だ。歌詞が日本語になった。
「組み合わせたのか。」えっ。と陽菜はクボを見つめる。
「この歌は日本語のバージョンもある。混ぜたんだ。」
彼女は原曲の持つ雰囲気と母国語の強さを自分なりに解釈し自らの演奏という形で表現していた。
陽菜はそんな歌を聴きながら潜在的に彼女の中の軌跡やルーツは歌なのだろうと心中頷く。
陽菜には想像もできないほどの大都会、トウキョウ。その土地で生活をし、壁を経験し、そして彼女は今陽菜の住む仙台で歌っている。
さっきまで道路の向こうに豆粒みたいにしか見えなかった彼女は陽菜が捜し求めている答えを瞳の奥に宿しているように見えた。
わたしがやりたいこと。。
ギャラリーからまちまちに起こる拍手を聞き、演奏の終了を知る。
りさと名乗った女性は指先に込めた力を抜くと、自分を見つめる人々に深々と頭を下げた。
自分自身と向き合い何かしらを確信した彼女の笑顔は煌びやかでいて、強かった。
気がつくともうすっかり陽は落ちていて夜の仙台は陽菜の体温に突然干渉してくる。
寒い。言葉にしないでそれを呟くと轍を抜け再び現実を歩き出した。
いつの間にか隣から消えていたクボを目で探してみるも無駄なことと会得していた陽菜はすぐにそれをやめた。
耳に残るメロディ。うろ覚えながら先程まで聴いていた歌が頭の中で鳴り止まない。
アーケード内に見つけたコンビニに立ち寄った陽菜はノートを手に取るといそいそとレジへ向かった。


自費出版の経費などを考えています。