見出し画像

11

橘(タチバナ)君は、苦笑しながら電話口の店長の話を聴いていた。
先日出したアルバイトの休日申請が、一度穏便に通ったと思われたが、急遽出勤して欲しいという内容の電話だった。
何か先だって予定があった訳ではないのだが、こういった話しが月に度々ある為、タチバナ君は便利なスペアパーツの様な気分だった。
部屋の姿見に映るのは雷に打たれた様な毛色の、こんがりと肌の焼けている、見事な眉毛を蓄えた青年だ。
「またクボさんすか」
握ったスマートフォンの裏面を、人差し指でカチカチと叩きながらタチバナ君は言った。
「今回は陽菜ちゃんなんだよね。どうしてもって事で。申し訳ない。」
度重なる失態を詫びる営業マンの様な口調で店長は面伏せに話した。
日が長くなり、飲食店は繁忙期を徐々に迎えようとしている時期に、クボは無断欠勤は無かったが、突然の早上がりをする事が増えていた。
店長が理由を尋ねても山篭りの準備だとか言って堂々とする始末なので、新しくコラフのアルバイトとしてタチバナ君が迎え入れられたのだ。
青森から仙台へ大学生としてやって来たタチバナ君は、コラフでの初日に若造!とクボに呼ばれてから妙な人だなと距離を少しとっていた。
しかし同時に、休憩中にボックス席の隅でペンを握り、ひたむきにノートに向かう陽菜に対しては、分かりやすく興味を示していた。
「あー、まあ、ダメなら仕方ないすね。わかりました。自分代わりに出るんで。」
タチバナくんは指先で鼻の下をこすると、そう言って電話を切った。
スマートフォンをベッドに放り投げる。タチバナ君は、後を追う様に大の字にダイブした。勿論、下の階に迷惑にならない程度に、だ。
浅く深呼吸をすると、タチバナ君は「露木さん」と、陽菜の苗字を声帯を使わないように丁寧に零した。
仙台に行くと決めるまで、タチバナ君は絵に描いた様な野球少年で、年中坊主の縦社会で汗と涙を流す日々を送っていた。
そうした生活の反動も相まってか大学生活を始める前は、手に取った事も無いファッション雑誌を熱心に眺めては密かに"イマドキ"を勉強し、
今まで伸ばした事の無かった髪の毛を頑張って伸ばし、自前で真黄色に染め上げるまでの努力をしていた。大学デビューとは彼にこそ相応しい言葉かもしれない。
野球一本で生きてきた彼にとって、窓際でボールペンを走らせる"イマドキ"の女子の姿は何より新鮮だった事は至極当たり前だった。
自分の事を「若造」と呼ぶ主将みたいなクボと正反対の大人しい陽菜が、親しく話している姿も不思議だったし、それが何故なのか。理由を知りたかった。
完璧に調理された炒飯の中の玉子みたいな毛色の頭髪を片手でかき上げると、タチバナ君はベッドの上の体をすっくと起こした。
今一度スマートフォンを手に取ると、真剣な眼差しで幾度目かの定例の文章を検索バーに打ち込んだ「女子。モテるには。話題。」
液晶の先にはタチバナ君の知らない世界が瞬く間に広がる。彼は紛れもなく自分自身の変化に気付いていた。指先が知識の探求を求めて動く。
部屋に貼られたアイドルグループのメンバーのポスター、両手を顔の下で握って見せる笑顔は何処か彼を励ましているように見えた。

ーー

油断していた夜の寒さに慣れた頃、突如として夏がやってくる。
季節の変わり目の気まぐれ具合に毎年悩まされる事は陽菜の定例行事だった。
ベッドの上で仰向けとうつ伏せを何度か繰り返しながら、陽菜はスマートフォンの画面の時刻を見た。
午前四時。まゆと参加の約束をした青葉祭りの開催日は紛れも無く今日だった。
待ちに待った遠足を前にした小学生じゃあるまいし、と自分で自分を責める陽菜は眠れない夜を過ごしていた。
液晶ディスプレイの光に顔を当てたせいで、一瞬の眠気も消える。陽菜は重ねる様に一秒前の行動を悔いた。
ぬぁぁ。と、言葉にならない感情を口にしながら陽菜はだんご虫の様な姿勢になる。
両腕を顔の下に置き、ひじとひざを可能な限り近づける。眠りに着くのとも、起床するのとも違う。中途な様だった。
暗闇の中で陽菜は「時間」と「約束」という現実を一時置き去りにする。精神を安堵させる為に編み出したのがこのポーズだった。
サバンナで生活する動物達を題材としたテレビ番組で見たアルマジロのマネをしたら、意外と落ち着けたのが始まりだった。
クボさんは最近仕事を押し付ける事が増えた。店長もそんなクボさんを見て新しい子を店に入れたようだ。
タチバナ君。焦げたパンみたいな肌に信じられないくらいの金髪。西部劇に現れた歌舞伎役者の様な組み合わせだ。
そうですね。をソーッスネと言う。何か考えるときは鼻の下に人差し指を置いていた。そんな彼もまた、クボさんに変な呼び方をされていた。
新人の子がいる前でクボさんに新人と呼ばれる私って。と、今まで許せていた当たり前の日常が奇妙なものだという事を自覚する。
そういえば、まゆさんもタチバナ君も同じ大学生なのに、全然違うな。陽菜は顔の前で丸めた手を広げてあの日の食事を回想した。
ダルバート。バランスの壊れたシャツを着たまゆの食事法。見た目の細さを越える精神的な逞しさを陽菜は感じた。
世の中で心電図の様に起こる細かい出来事なんて全ては瑣末な事。嵐の様な女にはあらゆる事象が道路の石ころ程度なのだろう。
そんな嵐の中、唯一風雨の中心に立っていられる人物。あらゆることを巻き込み進む女と足並みを揃えられる男。そんな人、いるのかな。
陽菜は自分の好きな俳優の顔を切り抜いて、まゆの隣を歩く男性に当てはめてみる。ただ滑稽なだけのそんな妄想は一瞬で消えた。
カーテンの隙間からオレンジが差し込んでいる。朝というにはまだ早いのに太陽はせっかちに昇り始めていた。
陽菜は両足の隙間から片目を開けてそれを確認すると、休息のポーズを解く。まどろみの中で少しだけ眠った様な曖昧な気分だ。
枕元に投げていたペットボトルのお茶に口をつけると陽菜はカーテンを開ける。時間を間違えた夕焼けの照らす仙台の町並みがあった。
一体どうして不思議なのだが、徹夜を認知し、再びベッドに腰を下ろした陽菜はその数分後には見事に意識を何処かへ飛ばしていた。
取り戻した感覚を噛み締める前に耳に入ったのは玄関のチャイムだった。瞼をこすり混濁したまま陽菜はドタドタと音の方へ駆け寄った。
鍵を外すのと同時に玄関を勢いよく開けたのはまゆだった。ハイウェイを飛ばしてきた様な出で立ちに面食らった陽菜はパチパチと瞬いた。
「え、陽菜ちゃん寝てたの。もう結構朝だよ。つか祭り今日。」
まゆは勢いよく言葉を発するとレイバンのサングラスを外した。
「ごめんなさい。二度寝、しちゃったみたいで。」
夜明けのオレンジが幻だったかのようにドアの外は白くギラギラとしていた。
「あー。うん、つか、陽菜ちゃん今結構ヤバいかも。待ってるから色々直してきなよ。」
自分の見た目を姿見で確認しなかった事と溶けたソフトクリームを観る様なまゆの表情に陽菜は顔を燃やした。
「あ、ご、ごめんなさい。すぐ、いきます。」
簡単に伝えて玄関を閉めた陽菜は風の様にシャワーを浴びると身支度の自己ベストを叩き出した。
カラスの行水とはいみじくも言ったものだ。しかしながら、外出するとあって手早くながらも陽菜は納得のいく顔面工事を成功させた。
忘れないように姿見で改めて見た目を確認する。嵐の中を耐えられそうな出来うる装備を目視点検すると陽菜は外へ飛び出した。
「すみません、おまたせ、、」と、玄関先にいるものと思われたまゆの姿が見えない事に瞬間言葉を詰まらせた陽菜は、駆け足で姿を探した。
陽菜の住むアパートの裏には空き地に砂利を敷いた簡易的な駐車場がある。まゆはタバコの煙をくゆらせながら駐車された車へもたれ掛かっていた。
駆けて来る陽菜に気付くとまゆは大袈裟に手を振って自分の場所を教えた。色の抜けたデニムのショートパンツは所々何処かへ擦り付けたような跡があった。
「やー、今日最高に天気いいね。マジ祭り日和って感じ。」
そういうとまゆは先端だけが燃えたタバコを揉み消した。陽菜もぎこちないながらも、そうですね。と頷く。
一点の曇りのない白いシャツをまゆは着ていた。照り付ける日差しがまゆの存在を一層際立たせているようだった。
「これ、まゆさんの車ですか」
陽菜はまゆの後ろにドッシリと構える黒い塊を見つめながら言った。
「そ、中古で買ったんだ。結構いけてるオジサンっしょ。」
まゆは鼻をすんと鳴らすと親指で車を指した。
ジャングルの奥地へ宝探しに向かう様な巨大なボディは、寄りかかるまゆと面白いほどお似合いだった。
と、陽菜は車の中に人影があることに気付き、え。と声をあげてまゆの傍へ寄ると窓ガラス越しのそれを指差した。
「あー、そうだそうだ、ごめん。陽菜ちゃん、あれうちの彼氏。紹介するね。デビ。」
まゆは両手を幾度か叩いて笑うと後部座席のドアを軽快に開けて彼の姿を陽菜へ見せた。
「ハジメマシテ」あ、と陽菜は声を漏らす。そこに座っていたのは行きつけのコンビニで働いていたあの外国人だった。
陽菜にとっては「はじめまして」より「いらっしゃいませ」の方が確実に安心する最初の台詞だった。
「ワタシ、ギミレ・デビプラサド、ト、モシマス。ヨロシクオネガイシマ。」
部分的に足りない日本語の数に困惑しながらも、陽菜は軽く会釈をした。
「デビはね、ネパール人。大学の近くにインドカレーの店があるんだけど、そこで捕まえたんだ」
満足のいくジビエを捕らえたハンターの様にまゆはニッと微笑んだ。捕まえたって。。陽菜は苦々しく微笑み返した。
「ネパールにも祭りあって、今日の事話したら行きたいって言うからさ。いいっしょ。」
話しを続けながらまゆは運転席へ飛び込んだ。
「は、はぁ。。」
そう言いつつ助手席のドアに手を伸ばした陽菜に運転席からまゆの声が響いた。
「陽菜ちゃんはデビのとなり。うちの隣は今ちょっと半端ないことになってるからさ。」
まゆの声を耳にしながら目をやると、成程、大学の資料と思わしきダンボールが雑然とその席を支配していた。とても譲ってくれそうには無い。
かといって、と、陽菜は後部座席のまゆの彼氏に視線を向ける。主人を待つ犬の様にキラキラと陽菜の目を見つめ返しながら、デビは白い歯を見せた。
多くの日本人がなかなか出来ない見つめる行為を真っ直ぐに実行してみせる姿に、陽菜は若干の圧迫感を感じつつもデビの隣へ着席した。
陽菜がドアを閉めると、デビは何故かもう一度軽く会釈をすると「コニチワ」と陽菜へ微笑みかけた。どうも。と陽菜は引き気味に応える。
「おーしじゃあ、だすよ」
そう言うとまゆはエンジンをかけた。グロロロと地鳴りの様な音と共に車体がけたたましく揺れた。
助手席のダンボールからレポート用紙が何枚か落ちた事など気にせずにまゆはカーステレオのスイッチを入れた。
「デビ、これでいいよね。」
陽菜には分からないがネパール語でまゆはデビに声のボールを投げる。
「そうだね、だけどせっかくだし、もう少し音を上げようよ」
まゆはデビの言葉を受け取るとボリュームのつまみをグイと回した。
途端に車中にはダンスミュージックが響く。女性と男性のデュエット曲なのだろうか。太いベースの音が陽菜の足元を叩いた。
「Surke Thaili Khai。うちさ、この歌、むっちゃ好きなんだよね」
鳴り響く音楽を押しつぶす形でまゆは陽菜に向けて叫んだ。
先程まで陽菜の隣で大人しくしていたデビは、国民性なのか音楽を耳にした途端両手をくるくる回しながら踊りだしていた。
煙たげに見つめる陽菜に対しても遠慮する所か、きみもどう?ともとれる微笑みをデビは絶やさなかった。
まゆはミラー越しに踊るデビを見るとケラケラ笑いながら、褒めている様なネパール語をデビへ投げかけていた。
荒道を走ってる訳でも無いのに揺れる車内の光景を見ていると、ここは日本なのかなと陽菜は妙な錯覚に襲われていた。
選挙カーの様に近隣の事を考えないまゆの車はネパールの陽気な音楽を鳴らしながら青葉祭りの開催される駅前通りへと向かった。


自費出版の経費などを考えています。