聖徳をまとう_九/神域に騙る(1)
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科長神社――その創建の由緒は詳らかになっていないが、平安時代にまとめられた延喜式神名帳には石川郡九座のひとつとして既にその名が記されている。元は万葉集にも詠まれる二上山に祀られていたが、十三世紀に現在の大阪府太子町の山田地区に遷座したと伝えられる。いわゆる三韓征伐をおこなった女傑として知られる神功皇后生誕の地の伝承を持つ古社である。
小野妹子廟の四阿で夜を明かした私は汗と土埃にまみれたシャツの裾を払いながら石段を下っている。見上げると熱波を注ぐ七月の陽は天頂の雲間から覗いている。野宿で半日も熟睡できるとは。事実、疲弊してはいるのだろう。若い頃とは体力が違う。らしくもなく無理をしていたのか――独りごちる自分に苦笑した。
気が付くと科長神社の石鳥居の下に立っていた。扁額には「八社大明神」の文字が見える。主祭神として風の神である級長津彦命と級長津姫命が祀られているという。八という数字には文字どおりの数字を表すほかに多数という意味があるそうだ。つまり、最低でもあと六神、二神のほかの神も合祀されているのだろうが、私はその名を記憶していない。
バッテリーも絶え絶えなスマートフォンで確認すると約束の時刻が迫っていた。寝過ごさなくて良かったと胸を撫で下ろす。見えざる神に敬意を抱く余裕のない私は無心に鳥居をくぐった。人の姿のない境内は寂寞としていた。入母屋造の拝殿を正面に見て右側、境内南側に広がる鎮守の森との境界には腰高の擁壁があった。擁壁に背を預けて私は約束の人物を待つことにした。
まとわりつくような湿った空気と降り止まない蝉の声は時間の感覚を狂わせる。霞がかった意識はやがて砂利を踏む足音で覚醒を余儀なくされた。視界の端にデニムの足を捉え、私は顔を上げた。
「やぁ、遅かったやないか」
そう言う私に、鳥居を背にした横谷肇は仏頂面で応じた。
「なんか匂いますよ、秀太さん」
「ああ、汗臭かったらごめん。昨日はこの上で野宿してさ」
私は森の向こうを指差した。
「どうしてそんなこと」
肇は口元に手を添えて眉間に縦皺を寄せた。
「まぁ、いいですけど。それより昨日の電話。思わせぶりでしたけど、事件のこと進展があったんですか?」
「うん。それなりにね」
「聞かせてください」
擁壁になかば腰掛けるような姿勢の私は、立ちつくす肇を見上げるかたちになる。
「つまり――」
言葉を切って唇を湿らせると、一陣の微風が私の肇のあいだを横切った。
「君にとって、俺は検知器だったわけや」
肇のまなじりがピクリと蠢くのを私は見逃さなかった。黙したままの後輩は先を促すように頷く。
「八城宗光とろくでもない縁を持ったのは自分自身の愚行のせい。香苗との空白を埋める機会に恵まれたのは奇遇。だけど、結果として、俺は一連の不可解事の直接的な関係者になった」
今は「俺」だ。揺るがない意思の表明。覚悟の必要な場面がある。今がそうだった。
「いつもと雰囲気、いや、様子から違いますね。姉ちゃんがどうして死ななければならなかったのか。わかったんですか」
「だいたいは。順を追って説明しようか」
「いえ、僕は姉を殺した犯人さえわかれば――」
「やはり、そうなんや」
私は肇の言を遮った。躊躇はしない。迷いは言葉を鈍らせる。
「あの夜の、あの悪戯めいた電話のときから違和感はあった。あのときは疲労困憊でさ、その正体がわからなかった。けど、それもこう考えると説明はつく。君が欲しているのは香苗の死の真相だけなんや、と。それ以外は既知のことであって要らない情報」
「何を言ってるんですか」
「雄平に頼んで君のバイト先に確認してもらったよ。あの日、小野妹子廟の前で別れたあと、君はバイトなんて行ってなかった。嘘を言って別れたあと、俺のあとをつけてたんやろう。そう言えば、どこかで怪しい人影も見えたかな。君に明かしていない事実を俺を握っていて、それをもとに俺が何らかの調査をするのじゃないか。そんな不安を君は拭えなかった」
釣り上がった細い目がまじまじと私を見ている。
「もう一度言うよ。君が知りたかったのは香苗の死の真相だけ。それ以外の情報を君は望んでいなかった」
「どうしてそんなことが言えるんですか」
「単純や。事件の中心にいた香苗は最初からすべてを知っていた。そして、君は香苗から聞いた。香苗とは――姉さんとは仲がいいんやろう」
いつかの情景があぶくのように浮かんでは消えた。校舎の昇降口。下駄箱。花柄の便箋。楽譜のプリント。小さな手に構えられたリコーダーが奏でる「ラヴァーズ・コンチェルト」のたどたどしいメロディは聞こえない。代わりに、木の葉が風に擦れるのどかな音が耳に届いた。
「香苗さんもそう言っていた」
漫然とあたりを眺めると、石鳥居の傍らに鎮座する切妻屋根の小屋が目についた。小屋の前には紙垂れを揺らす小振りな赤鳥居と二対の狛狐。金平大明神の社殿を守る覆堂だったか。奥に位置する狛狐の目は私を射抜いている。超常な存在に聞き耳を立てられていると思うと肌が粟立った。
「元来、仲が良い姉弟だったからこそどんな剣呑な秘密をも共有したのか。それとも剣呑な秘密を共有するがゆえに絆が深まったのか。あるいは、リスクヘッジを兼ねていたか」
「リスクヘッジって、いったい何のことでしょうか」
肇の表情は砂を噛むようだった。その声音はひどく素っ気ない。
「最悪、死のリスクすら考えていたと想像すべきかな。実際に香苗は死んで、君は今、事後の対処に動いている。リスクを想定して情報共有していた証左や。いずれにせよ、君ら姉弟は互いの行動をすべて共有していた。過去も今も。そして、君にとって残された謎は姉の死の真相だけ。君は、それだけを知りたい。だけど、今回の事件が紐解かれるその過程で彼女の過去の醜聞が暴かれることは回避したかった」
「過去の醜聞って一体何を――」
白々しかった空気がやにわに尖った。肇は身じろぎをすると、自らを落ち着かせるように鼻から吐息をついた。
「君は、警察やその周辺の動きを知りたかったんや。八城が怪しいという声を最初からあげながらも、だけど、誰にも香苗の過去には迫って欲しくない。そんなアンビバレントな感情を抱える君にとって、俺は――格好の検知器やった」
利用されたことに憤りをおぼえているわけではない。利用されるということは利用されるだけの価値を相手に見出されたということなのだから。世の中には利用すらされない、誰にも見向きもされない存在がごまんとあることを私は知っている。そして、それを自認することのつらさも。
「どこから話そう。香苗は推古天皇に憧れていた――んだっけ。何も知らなければ、権力を持ち得た同性への単なる牧歌的な憧憬に聞こえるけど。実際、香苗は支配者になりたかったんやろう。臍なんて表現も使っていた。臍は、中心を意味する。権力の中心に居座るためには、キャッスル・インフィニティのなかで八城に目をかけられている河下美月が邪魔やった」
私は背にした鎮守の森を目だけで振り仰ぐ。そして、鬱蒼とした木々の奥に小野妹子廟の存在を感じ取る。死後千年を超えて、今、自身の墓と伝えられるその土地が数多の王陵を見下ろす現実を、小野妹子はどう思っているだろう。古人はそれを望んだのか。
「それは、秀太さんの想像でしょう。河下美月の死は事故やったと聞いています」
「証拠はないよ。だから、今は俺の想像を聞いてくれればそれでいい。俺の想像では、河下美月を殺したのは香苗や。背理法、とも言えないやろうが、そう仮定することでその後に起こった事象とが矛盾なく繋がる。始まりは――」
胸の高鳴りを押さえて、言葉を切った。すべて益体もない妄想だ。それで良い。無意味な想像が収束し、ときに意味を生む。
「始まりは、歯やった」
「姉の歯は折られ、現場から消えていました。それとも、確か、鎌倉時代でしたっけ。聖徳太子の墓の盗掘の話ですか」
「いや、香苗の歯でも聖徳太子の歯でもない。まずは河下美月からや。一年前、彼女がコンビニの駐車場に突っ込んで死亡したのは事故やと言われてる」
「今さら蒸し返すようなことですか」
肇の上気した頬に不快の色が浮かぶ。
「そういう態度になるわな。これが君の守りたかった香苗の過去やろう。美月の事故は、香苗によって引き起こされたものやった」
瞬間、咎めるように肩を振るわせた肇に構わず、私は言葉を継いだ。
「未必の故意。プロパビリティの犯罪とも言う。香苗は、車を運転する予定のある美月に催眠性の成分を含む薬品を飲ませた。それも口移しで。香苗は噛みつき魔で、そして接吻魔だった。美月もかなり奔放なキャラクターだったらしい。香苗は、食事の場を使って女性同士の遊びを装ったんやと思う。美月が本当に事故を起こすかどうかはわからない。が、結果として事故は起こった。そして、香苗にはひとつの気掛かりが残った。それは、口移しのとき、美月の歯に自分の口紅がついていたかもしれないこと」
あのときのように。香苗との再会の夜。酒臭い口づけは私の唇に鮮烈な紅を移した。そっと自分の親指の腹に視線を落とす。擦れた朱色は今はもう無い。
「だから、香苗は、俺があのコンビニで――事故現場で歯を踏んだと言い出したとき、状況を詳しく聞き出すために俺とのコミュニケーションを求めた。むろん、事故当時にはしっかりとした現場検証がされているわけやから、普通に考えれば、遺留品が今も残っているなんて考えるはずないんやろうけどな。でも、この気掛かりは香苗にとって急所であって冷静さを失わせるに充分やった」
つまり、香苗が十年以上ぶりの再会を果たした私に過剰とも見える接触を求めてきたのは、それは友情――あるいは愛情の発露ではなかったということ。彼女の行動の裏には打算があった。帰郷して同じように旧交を温めた田辺雄平のそれとは違った。香苗の真意を知ってなお、一抹の物悲しさすら感じないとは言い切れない。あのとき確かに覚えた心の安寧にまで嘘はつけないから。
「証拠は無い――ですよね」
後輩の発する声は、微かに憂いを含んでいた。
「ああ、それでいいよ」
「で、結局、秀太さんがコンビニの駐車場で踏んだという歯はどこに行ったんですか」
言葉にしがたい虚しさが肺腑に迫り上がり、そして、さざ波が引くように消えた。
「さぁ。小石でも踏んだのを見間違えたんやないかな。花を供えていた女性の姿も幻やったのかもしれない」
「ふざけるな!」
色めき立った肇は頬と口端を歪め、血走った目で私を睨み据えている。
「そんな馬鹿げたあなたの妄言に姉ちゃんは振り回さ――!」
赤鳥居の前の狛狐がコロコロと鈴の鳴るような声で笑った――気がした。肩で息をする肇は気まずそうに片方の手で口を覆った。
「語るに落ちたかな。少しは狙ってたんやけどね。まぁ、今のは聞かなかったことにするよ。代わりにもう少し俺の想像に付き合ってほしい」
「――続けてください」
肇は長い睫毛を震わせて呟いた。朧げなその視線は神域を彷徨っている。
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