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【小説】僕の敵


 三百六十度、荒野だった。草木は枯れ、茶色いゴツゴツとした地面、遠くには岩肌を見せた山々。空は晴天で、俺の目の前にはコンクリートで整備された一直線の道があった。


 俺はその道をひたすら走り続けていた。気づけば走っていた。そしてなぜか走りをやめようという思考には至らない。キツいなんてものは微塵も感じなかった。

 これは夢なのだろうかと考えたことがある。いささか子供らしい確かめ方だが、頬を抓ってみた。痛くなかった。いや正確に言えば、痛みって何だったっけ、となる。実際、夢では痛みを感じたことがない。しかしそれは夢という概念の中において、痛覚の概念は存在しないからではないのだろうか。まあ、そんなことは至極どうでもいいことなのでもう考えるのをやめる。

 俺がこの道を走っていると気づく前、何をしていたのかはっきりと覚えていない。だからなぜこの道を走ることになったのかはまったくもってわからないし、記憶が戻っても原因が見つかるとは限らない。ぼんやりと覚えているものは、俺が自分がやりたいことをやろうとして色々やってきたということ。そして痛みと苦しみ。あまりいいとは言えない記憶だ。そんな以前の俺に比べたら、今この道を走っている俺はとても楽だ。痛みも苦しみもなく、ただ走っていればいい。このまっすぐな道を走ってさえいればいいのだ。

 けれど、喜びを感じられない。なぜなら俺がこの道を走っていると気づいた頃から、何とも言えぬ喪失感があったから。この喪失感が何かは未だにわからない。いや、もうわからなくても……いいんじゃないか。

 俺はこの道を走り続けていれば楽に生きていられるのだから。

 ふいに立ち止まりたくなった。今までこんなことを思ったことがなかったのに。そして立ち止まると、喪失感が何なのかにも気付ける再び痛みや苦しみが襲いかかってくるだろう。

 痛みや苦しみを感じてでも失った物に気づくか、それとも走る続ける楽な道を選ぶか。

 だんだん走るペースは落ちてきていた。体は脳よりも先に答えを出しているというのだろう。

 次の一歩は出なかった。そして足を揃えて、天を仰いだ。

 視界が全て空で染ま……らなかった。突然、目の前が真っ暗になった。その瞬間、空を飛んでいる飛行機から落とされたような感覚が俺を襲った。同時に今までの苦しみ、痛みも一気に体に入ってくるようだった。

 どちらが上か下か、右か左か。そんなものはわからない。ただただ暗闇を落ちて行っていた。すると、一点の光を俺の目が捕らえた。

 痛い手をその光に伸ばした。その手は光にまったくもって届きそうになかった。でも、光は徐々に大きくなっていた。否、俺が光に近づいていたのだ。

 今度は視界が真っ白になった。光が爆発したようだった。俺は眩しさに耐えきれず目を瞑った……。

 次に目を開くと、白い天井が目に入った。痛みや苦しみはもう引いており、体が軽くなっていた。体をゆっくりと起き上がらせる。俺はベッドで寝ていたようだったのだ。

 カーテンが風でなびいており、窓からおだやかな昼の日の光が入ってくる。部屋の隅には観葉植物が飾られている。他には何もない殺風景な部屋だ。ここは病院なのだろうか。

 部屋の扉が開き、白衣を着た医者らしき男性が入って来た。

「おお、目を覚ましたのかい」

 その男性は俺に優しく声をかけてきた。

「高梨くん!」

 男性の後ろから見覚えのある女性が駆け寄ってくる。目に涙を浮かべながら彼女は俺の手を握るが、状況がイマイチよくわからない。

「俺は、一体……」

 俺に何があったのかを訊こうと思ったが、途中で言葉が途切れてしまった。

「君、交差点の真ん中で倒れてしまったんだよ」

 頑張りすぎなんじゃないか、と言いながら男性は俺にペットボトルの水を差し出してきた。俺はそれを受け取る。

 その無味無臭の水を一口飲むと、だんだんと記憶が蘇ってきた。

 そうだ、倒れたんだ。何もかも嫌になって諦めかけたんだ。

「もう少し楽をしてもいいと思うよ」

 医者の言葉に女性—泉先生もうんうんと頷く。

「もうやめようよ高梨くん。これからも私が面倒見てあげるから。働きたくなったら就職先も紹介するから」

 新人賞に応募しては一次落ちを繰り返し、ネットに投稿すればPVも三桁行けばいい方。そんな日々をもう七年近く続けている。

 あの苦いコーヒーを飲んだ日からずっとだ。

 もう一度、味のしない水を飲んでみる。

 美味しくない。

「頑張らないといけない人生を俺は選んでしまったんです。楽じゃなくても自分がしなきゃいけないことをしたいから」

 一度失った物を思い出し、取り戻した。どれだけ心をあの日に戻そうとしても、身体と思考は成長し続ける。もう戻ることはできないのだ。

 敵に立ち向かうしかない。

 この荒野の先にある敵に。

 この体が朽ち果てるまで。

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