小さな国の大きな野望:デジタル国家「e-Estonia」の可能性と試練
「エストニアに電子移民しませんか」
世界中からテック関係者が集まるSlush Tokyo 2019。インターン先の手伝いで来ていた僕に、e-Estoniaというブースの白人男性が声をかけてくれました。
エストニアなら聞いたことがあります。確か把瑠都(バルト)という力士がそこの出身。でも、「電子移民」という言葉には違和感しかありません。
ちょっと話を聞いてみると、オンライン手続きをすれば簡単にエストニアで起業ができるとのこと。すでにこのシステムを利用している日本人もいるとか。
「最初は怪しいと思ったけど、なんだか面白いコンセプトだなー。」当時はその程度の感想でした。
時は流れて2020年、ふとした瞬間にこの話を思い出しました。
あらためてe-Estoniaを調べてみると、想像以上に革命的で魅力的な試みだということがわかります。
そこで、この小さな国の大きな挑戦を僕なりにまとめてみました。
e-Estoniaとは
"electronic"=電子エストニアの略で、同国のデジタル政策の総称です。
ソビエト連邦からの独立後間もない1994年に発表した「情報政策基本原則」をベースラインに、様々な公的サービスが「e-」の頭文字とともにオンライン化。テクノロジーやスタートアップ文化を育む環境も整備されています。
実は首都タリンはソ連時代からコンピューター産業が盛んで、1960年代には連邦サイバネティックス部門が設置されるなど、デジタルの土壌はあったとか。
とはいえ、時は90年代初頭。
ITが一般に浸透していないなか、国運をかけたテクノロジー戦略は簡単な決断ではありません。
デジタル移行アドバイザーを務めるフロリアン・マーカス氏は、e-Estonia公式動画でこのように語っています。
エストニアは「インターネットが世界的に普及する」と信じて非常に大きな賭けに出ました。ありがたいことに、本当にそうなりましたね。
生活のほぼすべてがオンラインで可能に
e-Estoniaの目玉は、やっぱり極限までデジタル化された行政機能です。
公的サービスの99%がオンライン対応しているほか、e-ID(日本で言うマイナンバーに近い)は
・免許証
・銀行口座
・処方箋や医療記録=医療機関も電子カルテを共有できる
・お店のポイント
などと紐付いているため、日常的な手続きのほぼすべてがオンラインで可能といえます。
残りの1%は結婚・離婚と不動産の売買。人生にかかわる重大な決断なので、意図的にオフライン限定にしているとのこと。
公的データはすべてX-Road=自前のブロックチェーン技術によって管理されているため、プライバシーやセキュリティにも細心の注意を払っています。(EUのサイバーセキュリティ部隊はエストニアに設置。)
国民と政府の信頼関係を重視し、情報の透明性やプライバシー保護、そしてユーザー中心を兼ね備えた行政を目指しています。
特筆すべきなのは2005年に導入されたオンライン投票の浸透率で、2019年のEU議会選挙では国民の46.7%が利用しました。
他国が羨むスタートアップ文化
人口わずか130万人のエストニアには、ユニコーン企業(=未上場で企業価値10億ドル以上)が4社もあります。これは世界最大の比率で、人口1億3000万人(100倍)の日本には6社だけです。
あのSkypeがエストニア企業って知ってましたか?
こうしたエストニア企業の躍進は決して偶然ではありません。
政府主導で新しい技術やビジネスを支援する土壌を作り上げ、今に至っています。
特徴をあげると以下の通り。
・テック人口の多さ(労働人口の約6%がICT事業に従事)
・最高峰のインターネット環境・中立性
・3時間で完了する簡単なオンライン登記
・e-Residency(後に解説)
様々な調査で評価されていることも頷けます。
また、首都にあるタリン工科大学は「電子政治学」の専攻を用意するなど、IT系の教育にも注力しています。
公的機関と大学の協力体制にはアメリカのシリコンバレーと通じるところがありますね。
若い世代と女性の活躍
e-Estoniaの運営陣を見て驚いたのは、その若さと女性比率の高さです。
長官のピペラル氏を筆頭に、主要メンバー10人のうち8人が女性。しかも全員が40代以下。
日本の公的機関では考えられないリベラルな環境ですが、裏にはしっかりとした系譜があります。
そもそもエストニアがソビエト連邦から独立した1991年、首相のラール氏は36歳でした。情報政策基本原則が発表されたのは、そのわずか3年後。
様々な分野で世界の先端をいくフィンランドを含め、北欧や東欧諸国では女性が政治や行政、ビジネス等の重役を担うことは珍しくありません。
したたかなグローバル戦略と「デジタル移民」
先進国はe-Estoniaを簡単にマネできないでしょう。
「独立したばかりの小さな国家」だからこそ、これほどまでに俊敏でエッジの効いた試みが可能だったのです。
しかし、逆に言えばエストニアの資源や人種的多様性・労働力は乏しく、経済規模はまだまだ大きいとは言えません。自国のアセットだけで爆発的な成長を維持するには限界がありますね。
そこで2014年、彼らは大胆な試みを始めました。e-Residency(電子国民制度)です。
例えば僕たち日本に住む日本人がアメリカで起業する場合、自分が現地へ赴くか、エージェントに手続き代行を依頼する必要があります。
しかし、e-Residencyは電子化された行政機能や様々なツールを活用することで完全リモートの会社設立・運営を可能にしました。
EU圏の法人を簡単に登記できる点や「e-Resident=電子国民」同士のネットワークは世界中の起業家やデジタルノマドを惹きつけています。
公式インスタもいい感じ
なんだか遠い世界の話のように聞こえますが、日本はe-Resindencyから熱い視線を集めています。
公式サイトには英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語に加えて日本語の資料が用意されているほか、僕が参加したSlush Tokyoなどのイベントでも積極的に布教中。
エストニアのe-Residency関係者が参加するミートアップも開催されているようです。
実際にe-Residencyを利用した日本人のヒンメリさんは、このように語っています。
エストニア共和国を選定した理由はいくつかあります。
・渡航せずともWeb上で登記作業を行うことができる
・電子行政国家のため、ほぼ全ての企業活動をオンラインで完結できる
・EU圏でのビジネスがしやすい
・申請のためにエストニアの電子国民になるのがなんとなく格好いいから
などです。
2020年5月発表のデータによると、申請可能国は160以上。1万を超える会社が6万6000人以上のe-Residentによって運営されているとのこと。
これによって3100万ユーロ≒約37億円の税収があり、貴重な外貨獲得ソースにもなっています。
政治的リスク
優れたアイデアと実行力で画期的なシステムをつくりあげたエストニア。
しかし、どうしても無視できないリスクがあります。かつては同じ国だったロシアの存在です。
世界で最も敵に回したくない男
崩壊後約30年が経ったとはいえ、旧連邦諸国に抜群の影響力を持ち続けている同国。
例えば2014年、軍事的な思惑によってウクライナ領クリミアに武力介入したことは記憶に新しいですよね。
テクノロジーやデータがますます重要になっていく世界で、デジタル国家エストニアの動向は気になるところ。
本格的な脅威になる前に、何らかの衝突が起こる可能性はゼロではないでしょう。
武力介入はもちろんのこと、ロシアはサイバー攻撃にも定評があります。
もっとも、エストニアも無防備ではありません。
行政データを国外に保存しているほか、e-Residencyは親エストニア人口を増やし、国際的な抑止力を高める効果が期待されています。
とはいえ、油断できない状況は続くと思います。
EU所属のデメリット
自由なヒト・モノ・カネの往来。そして政治的安定性。
独立当初のエストニアにとって、EUは願ってもない素晴らしいシステムでした。
しかし、時の流れとともに状況は移り変わるもの。
将来的には同盟が逆に足枷となる日が来るかもしれません。
象徴的だったのは、2017年にエストニアが暗号通貨「estcoin(エストコイン)」構想を発表したときのことです。
世界初の「政府によるICO」として注目を集めましたが、EUは強い牽制を行いました。結果的にestcoinはe-Residencyのプログラム内でのみ流通する通貨として準備が進められることに。
「すでにユーロが存在している中、他の通貨を発行することは認められない」というもっともな反対理由ながら、EU加盟国の限界を露呈する事件になりました。
2020年現在はまだEUに所属するメリットが大いにあるかもしれませんが、今後エストニアのIT技術がさらに伸び、貿易のカードになってくれば話は別になってくるでしょう。
e-Estoniaの未来は?
圧倒的なスピードで成長する一方、ロシアやEUに板挟みになっているとも見れるエストニア。
彼らの将来はどのようなものになるでしょうか。
美しい首都タリン
それを読み解く鍵は、やはりテクノロジーだと思います。
e-Estoniaが時代の流れを正確に捉え続ければ、常にこの国は有利な立場をキープできます。
例えばエストニアが注力しているブロックチェーンやサイバーセキュリティ、そしてイノベーションを促進するスタートアップ文化は素晴らしいアセットですね。
教育も重要なピースの一つです。
エストニアでは大学まで学費が無料(公立校だけですが、全体の95%を占めます。)で、2020年中にすべての教科書をオンライン化する方針。
現代社会で必要とされる知識やスキルが目まぐるしく変わることを踏まえ、生涯教育システムも構築中とのこと。
国を支える原動力を育てるため、惜しみない投資が行われています。
昨今の情勢を鑑み、Clanbeat(算数の学習ツール)など、自国産のedTechツールを全世界に無料で提供している点にも好感が持てますね。
こうした試みが実を結べば、エストニアは「東欧の小国」から「ITや教育で世界をリードする先進国家」として認められるでしょう。
保証や確証はありませんが、明るく刺激的な未来が待っていると思います。
長官のピペラル氏はe-EstoniaをアピールするTEDトークをこう締めくくりました。
私達の言葉を鵜呑みにしないでください。実際に(e-Estoniaを)試して欲しいのです。
参考情報
e-Estonia公式YouTubeチャンネル
e-Estoina公式資料(日本語版)
実際にエストニアに訪れた高木さんのnote
e-Residencyを利用したヒンメリさんのnote
エストニア在住のアレックスさんが運営するメディア
タリン大学に留学し、e-Estoniaの日本ミートアップにも関わったYuriko Saitoさんのブログ
この記事を書いた人
Neil(ニール)
ecbo (荷物預かりプラットフォーム) とプログリット (英語コーチング) でUI/UXデザイナーとしてインターン。現在はIT企業でデザイナー。 ハワイの高校。大学では法学を専攻。もともとはminiruとしてnoteを運営。
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