snoopy

臨床カウンセラー、源流東洋占星術師、演出家、脚本家

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最近の記事

童話の世界

まだテレビもない時代。 前にも話しましたが、幼稚園への通園路は根津美術館の坂道がありました。 美術館の庭の木々が壁の向こうにうっそうと茂り、夏でもその坂道を涼しくしていました。 坂の途中にはなんでこんな所にという場所に模型屋さん(プラモデルなどを扱っているお店)がありました。 今思うと、幼稚園の近くに小学校があり、そこの学用品の売店をやっていたのだと思います。なぜか、そこには剣道の竹刀や防具が売っていて、私が中学校に入って剣道をやる時にそこへ買いに行った覚えがあります。  

    • 引きこもりの子

      幼稚園は、実家からこどもの足で歩いて20分くらいのところにありました。先回話にでました家の前の坂を下り、根津美術館の裏道の長い坂を登りきり、そこから当時野っ原だった所を突きぬけると、その幼稚園は住宅地の中にありました。後日近所のお寺に付属幼稚園ができたのですが、こどもながらに遠くまで毎日歩いて行ったなというのが印象でした。  幼稚園時代は体が弱かったせいか、熱を出してよく休んでいました。そう、遠足や卒園式の写真は別撮りの顔写真が集合写真の上の方に載っていました。 でも、幼稚園

      • 雨降りの絵画

        自分が生きてきた中で一番の表現をしたことは何だったんでしょう。 ある人は、演劇であったり、ダンスであったり、歌や演奏であったり、スポーツであったり、または。。お習字であったり、絵であったり、写真であったりと。。。 私も色々と表現をしてきました。たぶん基本的に好きだったのでしょう。、 それは、充分大人になっても演劇の世界で自分を表現し続けていることを見ても,上手い下手は別としても天性のものだったのだと思います。 人生の中で色々な表現をしてきましたが、一番の大作はと言われてみると

        • 寂しさを味わう

          小さい時の家には、もうすでに内風呂がありました。 当時は近所の家ではまだ、近くに2軒あった共同風呂へ行くのが普通でしたが、前述の3歳の時に引っ越して来た家には木で出来た風呂があったのです。薪でたくお風呂は勝手口の横に薪をくべるところがあり、母親がなたで薪を割りながらくべている光景を覚えています。 さて、私がいつお風呂に入っていたかというと、年齢のわりには遅い時間に入っていました。まだ当時は母親に入れてもらっていたのですが、その時間は10時くらいではないかと思います。そして、

        童話の世界

          一番感情を表に出した日

          人生の中で一番感情を表現した時(つまり、泣いたり笑ったり思いきりした時)はいつの事だったのだろう。 大人になっても、結構馬鹿笑いしたり大声で泣いたりしたことはあったけれど、私にとっては、ある一つの出来事があった時に、とても感情をぶつけた時があったのを覚えています。これもビジョンとして未だにその光景が浮かびます。 それは、たぶん3・4歳の時だと思います。 当時、家には三輪車があり、昔の鉄製の物ですから家の外に出してあるとすぐに錆びついてしまったようです。新品の記憶がないので、

          一番感情を表に出した日

          ある日ある時ある場所で。。

          私のこころの旅は、記憶の中のビジョンから始まった。 この旅をする上で、私は棚卸を早く進めなければと思った。それは、記憶が不確かにならないうちに過去の記憶をダウンロードしていかないとといいう焦りからです。 私は小さい時から日記を書くことを、いや、物を書くことをあまりしなかったので、記憶に頼って過去の出来事を掘り起こす作業が必要だったのです。 日記をつけていた方は、過去の日記の棚卸をするといいでしょう。 昔、まだ若き頃は、私はこの作業をあまり好まなかった。なぜなら、ネガティブな

          ある日ある時ある場所で。。

          ものごごろつく

          私がこの仕事というかライフワークとしてやっている“こころの旅”はまだ終わらずにずっと続いています。そして、この旅がいつ終わるかも想像がつきません。 では、いつ始まったのだろう?という疑問が起こってきます。 そこで、まずは自分が認識している記憶の限り掘り起こし、旅についても手がかりを探そうと思ったのです。そしてこの旅の意味も。。。。 よろしかったら、これを読まれている皆さんもご一緒に旅をしてみませんか? 自分の初めての記憶はいったいいつの頃のことで何だったんだろう。 そんなこ

          ものごごろつく

          自分との出会い

          まだ小学2・3年のある寒い冬の昼下がり、麻布にある実家の近くに当時あった幼稚園の園庭で、一人鉄棒の逆上がりの練習をして遊んでいました。その日の空は今にも雪が降って来そうな重く灰色の雲が覆っていました。 しばらくすると、3人姉弟の一番上の姉がやってきました。姉はポツンと「・・おばあちゃんが死んだよ。」と同居していた祖母の死を告げて家に戻って行きました。 時はまさに映画“Always・三丁目の夕日”の舞台の時代。。 私は、家に帰らなくてはと思ったのと同時に、何か言い知れぬ気持ちが

          自分との出会い