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東京時層散歩〜東京都中央区佃

徳川家康が初めて江戸にやって来た1590年頃、今の日比谷のあたりが日比谷入り江と呼ばれる海だったことは広く知られている通り。日比谷入り江は今の大手町駅のあたりまで入り込んでいたそうです。
一方、京橋や銀座は、江戸城の対岸にある、江戸前島と呼ばれる小さい岬でした。岬の幅は、ちょうど銀座の東西の幅くらい。今、その岬を横断する晴海通りで例えれば、数寄屋橋の交差点から歌舞伎座のある三原橋の交差点あたりまで。東は昭和通りが海岸線で、その向こうには干潟のような江戸湾が広がります。岬の先端は新橋駅あたり。銀座の中央通りは、ちょうど岬の尾根にあたるのでしょうか。

銀座8丁目を上から。このあたりが江戸前島の先端だった。新橋駅前、土橋の交差点から海だったのかな。一方、銀座を東西に注意深く歩くと、中央通りをピークに、わずかな傾斜があることに気づきます。

そして東を向いて昭和通りの海岸線に立つと、2kmほど沖に、木々の生えた小さな無人島が見えていました。その島は森島、鎧島などと呼ばれており、後に江戸幕府の船手頭を務めた石川重次が拝領し、石川島と呼ばれるようになります。

急激に増えた江戸の人口と栄養不足。

昭和通りの海岸線から、沖に浮かぶ森島を見たかった…
それはちょうど、九州の有明海のような眺めだったのでしょうか。目の前に広がる江戸湊と呼ばれた海は、いわゆる江戸前の海、魚介類の天国だったはずです。しかし、江戸の庶民はこの魚介類を食べることができなかった。なぜなら漁撈の技術が無かったからです。

一方で、徳川家康による江戸築城や利根川の東遷など、江戸の街では江戸普請と呼ばれる大規模な土木工事が続き、全国各地から工事を請け負う大名や人夫たちが集まり、急激に人口が増え始めます。
彼らをまかなう米や野菜はどうにか間に合ったものの、足りないものはタンパク源でした。その当時、江戸の街では脚気が大流行し、それはおそらくタンパク質不足だからではないか、と考えられていたようです。今では脚気の原因はビタミンB1不足とされていますが、それはともかく。
動物の肉を食べない当時のこと、これでは江戸普請が続けられない。どうする家康! で、どうしたかというと、あるアイデアを思いつきます。
「そうだ。あの漁師たちを、江戸に呼び寄せてしまおう」

1644年に築島された佃島。東京都心に今も残る漁師町です。ご覧の通称「佃堀」は、築島当時の名残。
佃島のランドマーク、佃小橋。小さい漁師町とは対照的な高層マンション群は、かつての石川島造船所の跡に建っています。鬼平こと長谷川平蔵が建てた石川島人足寄場は、佃島と石川島の間にありました。

あの漁師たちとは、摂津国(今の大阪府)佃村の漁師たち。
彼らと徳川家康との関係には諸説ありますが、豊臣秀吉から上洛を何度も促され、しぶしぶ上洛した帰りに神崎川の洪水に遭い、そんな彼らを助けたのが佃村の漁師だったという説が有力。いずれにしても、その時に家康は彼らの漁撈技術に目を見張ったのでしょう。

江戸の庶民が見たこともない、大きな漁船の船団が現れる。

いかに将軍の頼みとは言え、村を離れて江戸に行こうという漁師はなかなか現れなかった。しかし、村の実力者であった森孫右衛門は彼らを説得します。
「これはただの漁ではない。江戸の人たちを助けに行くのだ」
この説得により、1612年(慶長17年)に総勢33名の漁師が集結。5隻の大型漁船に最新の漁具を積んで江戸に向かい、いずれ戻るつもりだったはずが、そのまま何代も江戸に住み、江戸の食文化を支えることになりました。
「腕の良い漁師たちが大坂から江戸にやって来るらしい」
という噂は江戸中に広まり、到着の日、品川・御殿山の高台には黒山の人だかりができたとのこと。そして、そこで江戸の人たちが見たものは、想像を越えるほど大きな漁船の船団だったそうです。

佃村の住吉神社も分社。もちろん今も佃に鎮座されています。佃島は江戸湊の入口に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めています。この神社による3年に一度の例大祭は江戸時代にそのままタイムスリップしたようで凄いぜ。その話は改めて。
例大祭の期間、佃島の要所要所に上がる大幟。歌川広重の江戸名所図会にも描かれた歴史ある幟です。

こうしてやって来た佃島の漁師たちは、幕府の重役である安藤対馬守重信の屋敷を仮住まいにし、さっそく江戸湊の漁場に出ます。鯛やヒラメ、スズキにカレイ、いずれも手つかずの魚たちなので大型。そして連日の大漁。この魚たちは品川の浜で待ち受けていた江戸城や大名屋敷の侍たちに納められ、残りは身分の差なく、江戸の町人たちに配られたとのこと。
また一方で、江戸で細々と漁を続けていた漁師たちに惜しみなく漁撈の技術を伝え続け、江戸の漁業を築くことになります。

江戸時代初期の佃島の話を、ぜひぜひ時代劇で見たい!

ところで彼らの苦労や活躍、そして心意気を伝える本があります。タイトルは『その昔 佃島漁師夜話』。著者は石井きんざ。自費出版。平成元年刊。まるで見てきたかのように、当時の漁師たちの会話が生き生きと伝わる内容なのですが、佃島に代々伝わる伝承をまとめたものと思われます。
都々逸の師匠でもあったという著者は、当時の話をとても美しい文体でまとめ上げました。時代小説としても読み応えのある傑作で、大河ドラマは無理にしても、ぜひともNHKのBS時代劇の5回シリーズくらいで見たいものです。
この本は、検索すれば古書店には何冊か残りはあるようです。また、東京都中央区立の3カ所の図書館で借りることもできますので、興味のある方はぜひ!

島なので狭い道や袋小路が多く、クルマが少ない。そのため、道の真ん中でお年寄りが立ち話をしていたり、駄菓子屋の前では子どもたちが車座になって遊んでいたり、今でも昭和の風景が生きている佃島。
春のうららの隅田川。佃島にもあちこちで桜を見かけます。

もちろん、苦労して江戸まで来てくれた、彼ら佃島の漁師には数々の特権が与えられました。やがて石川島に隣接する干潟を幕府から拝領。自ら築島工事を行い、1644(正保元年)に8500坪の人工島を完成させます。この島は、故郷佃村の地名を取って、佃島と名付けられました。その島が、現在の佃一丁目にあたります。
また、将軍家の御用漁師としても活躍。とりわけ白魚については本業として、江戸川、中川河口付近での独占的な漁が認められました。この海域で捕れる白魚は将軍に供される魚として売買は禁じられていましたが、家康の没後に禁は解かれ、江戸の繁栄と共に、佃島の白魚は浅草の海苔と並ぶ江戸の名物へと育って行きます。

最後に佃煮の話も。

などなど。あの小さな佃島には江戸の歴史が凝縮されております。ほかにも住吉神社の例大祭、東京都の無形文化財である念仏踊り、関東大震災、東京五輪による佃の渡しの廃止まで、話せばキリがなくなります。しかし長くなるので佃島誕生までの話で止めておきましょう。
とは言え、最後に佃煮の話だけしておこうかな、と。

現在も、旧渡船場の周りには老舗の佃煮屋さんが三軒。お店は古い順に『天安』は天保8(1837)年、『佃源 田中屋』は天保14(1843)年、『丸久』は安政6(1859)年の創業。この写真は住吉神社例大祭の時の『天安』さん。
ちなみに関東大震災の時、『天安』の四代目ご主人は、創業当時から使われている秘伝のタレを壺に入れて持ち出したとのこと。おかげで今も、江戸庶民と同じ味を楽しめるというわけです。僕はここの昆布が大好きで、東京を離れた今はなかなか買いに行けず、たまに禁断症状が現れます。

今では佃煮と言えば日本全国にありますが、発祥は言うまでもなくこの佃島。もともとは海が荒れて漁に出られない時に備えた保存食として、エビ、アミ、シラスなどを塩で煮込んだのが始まり。やがて運河網が張り巡らされ、千葉の醤油が江戸でも手に入りやすくなり、今の佃煮へと姿を変えました。
これに目をつけたのが、参勤交代で江戸にやって来るお侍さんたち。保存が利くので、江戸の土産として諸国に持ち帰るようになり、やがて全国に広まって行ったというわけです。

以上で佃の時層散歩はいったんおしまい。以前、noteで住吉神社の例大祭のことに触れているので、貼っておきます。よろしければご覧ください。

この界隈の歴史について、しみじみ学べる施設はこちら。大川端リバーシティの敷地内にあります。休館日にご注意を。

僕が愛用している東京散歩の必携アプリも紹介しておきます。佃島を中心に、東京の湾岸エリアがどのように広がっていったのか、見るだけでも興味深いです。

あ、書き忘れていた。
佃島漁師と徳川宗家との繋がりは変わらず、今も毎年3月になると白魚献上の儀式が行われているそうです。いい話ですよね。







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