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【短編小説】お引っ越し

 印鑑を押そうとする手がプルプルと震えている。
 ついに、いよいよ家を買うときが来たのである。
 水野常彦(みずの つねひこ)、45歳。45の齢にして、初めての、そして、一生に一度くらいの大きな買い物。
 印鑑を押す手が震えても当然かもしれない。

「おめでとうございます! これであなたも一軒家持ちになりましたね」

 建築をお願いした工務店の営業マンがうれしそうに言った。

「あ、ありがとうございます」

 常彦はでれでれに照れていた。

「後は、家ができ上がるのを待つだけです」

「私もやっと一人前になれましたよ」

「そうですね。本当におめでとうございます」

 隣にいる常彦の妻、香織(かおり)も顔が上気したように、興奮していた。
 ついに、ついに、この時が来たのだ。

 独身の頃、常彦は木造のアパートにも住んでいたことがある。隣人のテレビの音が丸聞こえだった。あの頃が懐かしい。
 結婚後は、マンションに移り住んでいたが、のびのびした環境ではなかった。セキュリティは万全だったが、どこか管理されているような気がしていた。

 けれども、一軒家になれば話は別だ。
 すべてが自分たちのもの。すべては自分たちの自由になる。
 一生懸命働いてきた、血と汗と涙の結晶、それがまさに一軒家なのである。

「わおーっ!」

 常彦は喜びで雄叫びを上げたい気分だった。

 だが、のしかかってくるものもある。
 35年というローンである。35年後、いくつになっているかと言うと、常彦は80歳。とてもじゃないが、ローンを抱えてはいられない。
 なるべく早く、ボーナスで一括に払える設定にしている。
 少しでも出世して稼いで、ローンを早めに返していかなければならない。
 責任の重さも痛感していた。

「これからも頑張って仕事するよ」

「そうね。私もパートで支えるから」

 夫婦は家を建てることで、一致団結していた。
 2人で力を合わせて、ローンを返していく。夫婦は片時も離れない。そんなつもりでいたのかもしれない。

 と、まあ、そこまではよかった。





 家の契約を済ませ、1ヶ月が経とうとしていた、ある日のこと。
 すでに、家の方は基礎工事が始まっていた。いよいよ着手に入ったのである。

 そこへ、青ざめた顔の常彦が帰宅した。
 夫婦には子供が1人いた。
 向日葵(ひまわり)ちゃんという7歳の小学1年生になる女の子である。

「パパ、お帰り~」

「・・・あ、ああ」

「お帰りなさい。どうしたの? 元気ないわね?」

 妻にはすぐにわかった。旦那の様子がおかしいと。

「どこか、具合でも悪いの?」

「い、いや、別にそういうことじゃないんだ。そういうことじゃないんだな、ああ、うん」

「何言っているの、あなた。様子が変よ」

「パパ、浮気したの?」

「コラッ、子供がそんなこと言うもんじゃありません!」

「エヘッ。どうしたの、パパ?」

「う、うん。それがね、転勤になったの」

 あまりにか細い声なので、2人には聞こえなかった。

「は? 何? 何て言ったの?」

「転勤になった」

 ピカッ! ゴロゴロ、ドーン!

 まさに雷が落ちた瞬間の衝撃だった。

「はああ?」

 香織の顔が今まで見たこともないような鬼の形相に変わった。

「どこよ! どこへ転勤なのよ!」

「A県・・・」

「ふざけんなあ!」

 それは、現在の場所から200キロ以上離れた場所だった。

「あんた、何したわけ? 何かヘマしたわけ?」

「し、してないよ」

「なら、どういうことよ!」

「た、多分・・・栄転?」

 常彦は顔中に苦笑いを浮かべた。

「ふざけんなあ!」

 今にも香織のグーパンチが常彦の顔面に炸裂しそうな勢いだった。子供がいる手前、それは、さすがにまぬがれたが。

「ママ、どういうこと?」

 はんにゃのような形相の香織を見て、心配そうに向日葵ちゃんが尋ねた。

「あのね、パパがね、お引っ越しするんだって」

「え? パパがお引っ越し?」

「そう。遠くにお引っ越しするみたいなの、パパがね」

「えー、そんなのイヤ」

「仕方ないのって、あなた! 断ればいいでしょ、そんなの!」

 思いついたように、香織は常彦に向かって言った。

「仕方ないよ。会社命令だもん」

「わかってんの? 家買ったばかりなのよ。一体、どうすんのよ!」

「会社にはうちの事情も話したさ。近くに家を買ったばかりですって」

「そしたら!」

「それはそれ、これはこれ、だって」

「はああ?」

「何せ、え、栄転だからさ」

 常彦は無理矢理、どや顔を作った。

「何が栄転よ! 一人で行きなさいよ!」

「で、でも、何年になるか、わかんないよ」

「知らんわ! 一人で行って来い!」

「ママ、恐い、ウエ~」

 向日葵ちゃんは泣き出してしまった。

「子供が泣いちゃっただろ」

「あんた、一人で行きなさいよ。あたしたちは新築にいますからね!」

「家、断れないかな~?」

「ふ、ふざけんなあー!」

 家を建てることで、もめる家族や夫婦もあるようだが、水野家は違っていた。ああでもない、こうでもないと、みんなで夢のマイホームを語っていた。
 みんなの意見を出し合って、やっと夢は形になった。マイホームは着手をしはじめたばかり。
 にもかかわらず、主人である常彦の転勤。
 人生はうまくいかないものだと、思い知らされることになった。

「会社の寮にでも入りなさいよ」

「今さら、寮なんてイヤだよ。ぼろっちいしさ」

「だったら、アパートでも借りたら?」

「けどさ、ここに10年もいたんだよ。ひょっとしたら、転勤先にも10年、いや、もっといることになるかもしれないよ」

「ふーん、だから何よ。あんたは何が言いたいのよ」

 香織からは鬼気迫るものを感じた。

「一緒に行ってほしいな~っていう感じ?」

 常彦は痛々しいまでに無理矢理の笑顔を作った。顔で誘っていた。

「はああ? 何が、ていう感じ? よ。バッカじゃないの! 誰も行きません。誰もA県には参りません!」

 香織の目はギラギラとしていた。

「そんな~。本気で俺一人で行けって言うの?」

「行けって言うの!」

「向日葵は寂しいよな? パパとずーっと離れ離れになるなんて」

「うん、寂しい」

「ほれみろ。向日葵はわかってるな~」

 常彦は向日葵ちゃんの頭をなでなでした。

「けど、A県に行ったら、学校も変わるし、友だちとも会えなくなるのよ」

「えー? 果凛(かりん)ちゃんとも会えなくなるの?」

「もちろん。果凛ちゃんだけじゃなくて、せっかくできた学校のお友だちとも、みーんな会えなくなるのよ」

 香織はみーんなを強調した。

「えー? イヤイヤ、そんなのイヤ」

「でしょう? 引っ越すのはイヤでしょう?」

「う、うん」

 常彦の子供陽動作戦は、かくして失敗に終わったのである。

「向日葵ちゃんも、引っ越すのはイヤなの?」

「お友だちと離れるのはイヤ」

「けど、パパとあんまり会えなくなるんだよ。我慢できる?」

「パパはいつ帰ってくるの?」

 その発言に常彦はガクッとした。この子は自分がいなくても堪えられるようだと感じたのだ。

「うーんとね、2週間に1度くらいかな」

「ええ? そんなのイヤ」
「だろう? だから一緒に引っ越そうって・・・」

「1週間に1度にして」

「へ?」

 常彦はひょっとこのような顔をした。

「1週間に1度なら、いいの? パパに会えるのが毎週1回こっきりでもいいってわけなの?」

 常彦の顔には、ご冗談でしょう?

という言葉が顔に書いてあった。言外に、それは無理だろうという意味が込められていた。

「それなら我慢する。我慢できるかも」

 向日葵ちゃんは何かを決意したかのようだった。

「たはは・・・」

 常彦は笑って誤魔化していたが、ここ数年来ないくらいのショックを受けていた。カウンターパンチを食らったかのように、めまいを覚えた。子供のストレートな言葉は心にこたえる。

「そういうこと。あんた、1人で行っといで」

「ちょ、ちょ、もうちょっと、考えてくれよ~」

「あんたが悪いんでしょ! 家ができるっていうのに、転勤なんかされてきて!」

「べ、別に、俺のせいでは」

「あんたが不甲斐ないからよ。あんたには隙があるのよ、隙が!」

 香織は今までの鬱憤を晴らすかのようだった。

「よーし、わかった! 俺1人で行くよ! 1人ぼっちで行くからな! もうどうなっても知らんぞ!」

 常彦はキレた。追い込まれたネズミのように、ネコに噛み付いた。

「どうなるっていうのよ」

「う、浮気とかな」

 とんがり口をして、常彦は言った。

「ふんっ」

 香織は鼻で笑った。

「やれるもんなら、やってみなさいよ。やれるもんならね!」

「う・・・」

 常彦は言葉に詰まった。
 常彦に浮気などできない。完全に見透かされていた。

「その代わり、給料だけはきちんと入れなさいよ。入れなかったら、ただじゃおかないんだから!」

「・・・へえい」
 
 こうして、常彦の単身赴任生活が始まった。
 最初のうちは寂しくてたまらなかったが、そのうちに慣れて、1人の生活も独身に戻ったようで悪くないかも、と思えてきた。

 何せ、何をしても自由だ。
 部屋を散らかし放題、お酒も飲み放題、やりたい放題できる。うるさい女将さんは、ここにはいない。

「でっへっへ」

 笑いが込み上げる。

「ここは楽園か?」

 一方、なぜか虚しさまで込み上げてきた。
 一人でちびちび飲むお酒にも、1か月もすると飽きてきた。

 この間、娘が寂しがっているだろうと思い、電話をしてみると、大きな笑い声が聞こえてきた。何でも、しょっちゅう「じーじ」と「ばーば」が来ているから楽しいらしい。
 常彦のスマホを持つ手は震えていた。怒りではない。悲しみから震えていた。

 だが、今日も銀行口座には給料を入れている。男、常彦、稼いでなんぼよ。
 自分を励ます言葉がむなしく響く。
 常彦は今日も行く~、チャンンチャン。

 では、終わらなかった。

 というのも、新築をお願いしていた工務店が突如、破綻したのだ!

 水野家はそれをネットのニュースで知った。
 水野家が引っくり返ったのは言うまでもない。

 工務店は顧客のお金を負債にあて、代表者は夜逃げ同然にいなくなったらしい。
 常彦も慌てて単身赴任先から取って返し、香織とともに工務店に押しかけた。
 しかし、扉は閉ざされ、もぬけの殻だった。

 一世一代の人生をかけた新築事業は・・・終わった。

 問題の新築は基礎工事の途中まで終わった状態である。
 これでどうやって住めというのだろう。
 セメントが固まっただけの家の基礎を見つめたまま、親子は途方に暮れていた。

「ここがリビングで、向こうがキッチン、だな・・・」

 基礎工事の枠を見ながら、常彦がぼそっとつぶやいた。むなしさが込み上げた。
 香織は立っているのがやっとだった。握っている向日葵ちゃんの手をギュウッと握った。

「ママ、痛い~」

「あ、ごめん、ごめん、ごめん、なさい」

 香織はその場で泣き出した。
 号泣だった。
 常彦も向日葵ちゃんも声をかけられないくらいの号泣だった。
 夕日だけが、家族を優しく包んでくれていた。
 
 裁判はこれからだ。
 工務店を訴える準備はしている。他の被害者とともに、盗られた資金を取り返す裁判を起こそうと計画している。
 だが、弁護士からは取り返すのは難しいと言われている。おそらく、ほとんどは戻らないでしょうと。

 新築は夢に終わった・・・かもしれない。
 でも、家族は今まで以上に団結した。
 単身赴任先で家族みんなで住むことになり、また元通りの一家団らんを迎えた。

 これでよかったのかもしれない。

 常彦は、そう思うようにしている。
 ローンは回避できた。まだ新築が完成前だったから、手付金のみの損害で済んだ。それでも、1千万近い被害となっている。

「またアパートからはじめよう」

 3人は木造のアパートに住むことになった。おそらく、壁は1枚、隣のテレビの音が丸聞こえだろう。部屋は薄暗く、光も差さない。
四畳半の部屋は3人で住むには狭すぎる。それでも、暮らしていかなければならない。

「ええ、そうね。これからよ」

 香織も何とか立ち直っていた。
 一家は薄暗いアパートの窓から見える景色を見つめながら、意を決したのである。

「これからさ」

 すぐ隣のビルの壁を見つめながら。



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