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【SDGs史】50年にわたる物語りの芽 70年代前編
環境省の白書でもSDGsの説明は、1972年のストックホルム人間環境会議から始まります。そこが起点です。そこから持続可能な開発という考え方が生まれ、アジェンダ21(1992年)、MDGs・ミレニアム開発目標(2001年)をへて、SDGs・持続可能な開発目標(2015年)に発展しました。
今、noteでSDGsがあふれています。
50年前、どんな物語りがあったのでしょうか?
歴史を知ると今が深くわかります。
てなわけで、本題に入ります。
ストックホルムで開催されたわけ
私の元上司は、1972年のストックホルム人間環境会議の日本政府の代表ミッションの一人として参加していました。当時の様子を直に耳にしてきたので、元上司の言葉と解釈、書籍が下地になっています。
この会議は、今ではほんの2,3行で説明されてますが、丁寧に紐解くと「今」を理解する手掛かりとなります。ちょうど50年前ってのもすごいですね。半世紀の物語です。
ストックホルム人間環境会議は、正式には国際連合人間環境会議です。1972年6月5日~16日までストックホルムで開催されました。一般的には、「環境問題についての世界初の大規模な政府間での会合」と説明されます。
ですが、元上司いわく、1960年代後半には、声がかかり準備段階に入っていて、「人間環境 (the Human Environment)」ってなんだ?で相当、困ったそうです。
環境って今でこそ共通認識ですが、当時は曖昧な言葉だったようです。国内外で喧々諤々と議論するも、各国で言うことはバラバラ。でも、そうやって議論したことがすごく大切だったんですね。
”なお、史実は主に「かけがえのない地球"のために-国連人間環境会議とストックホルム人間環境宣言(金子 熊夫、1972年)」
に依拠しております。
一部、上司の言葉と主観も含まれています。”
今、SDGsってなんだ?と議論しているのと同じ様相です。でも、この時は、国のお偉いさんたちと専門家が考えている段階。
今は、私たち全員が考えている段階。それまでに50年かかっています。
ただ、一つ共通認識はあったようです。
「かけがえのない地球 (Only One Earth)」というキャッチコピーです。今でこそ、センチメンタルな言葉ですが、当時は切実な求心力があったようです。
"これから毎年、平和で喜びに満ちたアースデイだけが、我々の美しい宇宙船地球号に来るように。"
ウ・タント国連事務総長
(1971年演説、役職当時)
"ぼくたちは、かけがえのない地球に「同乗」している、仲間です。"
「ガラスの地球を救え 二十一世紀の君たちへ( 手塚治虫、1996年)」
一つには、先進国の「公害」が看過できない状況になりました。今の環境問題は、加害側であっても被害が目に見えない難しさがあります。一方、「公害」は目の前で川や海や森や林や農地や風景が破壊され、しかも健康被害で亡くなる人が身近にでてきます。
その原因は、近くの工場であったり、道路を走る車であったり、農薬であったりと、とにかく視覚的に加害側が特定できるわけです。しかも、それは経済活動にための「必要悪」ともいえます。
当時の先進国は、工業国でした。経済のためには仕方ない。でも、「さすがに人が住むには環境が悪すぎるし、自然が破壊されるのも辛いので、改善しなければいけない。」
人として当たり前の感情のジレンマが目に見える形で現れた時期でした。
それに合わせて警告を鳴らす書籍や活動も活発化していきます。世界的には、1962年のレイチェル・カーソン「沈黙の春」が最も有名です。この本の書評は後で書きます。日本では、石牟礼道子「日本だと苦海浄土 わが水俣病」が1972年に書かれますが、会議の前から各方面で発信されていました。
"春がきたが、沈黙の春だった。いつもだったら、コマドリ、スグロマネシツグミ、ハト、カケス、ミソサザイの鳴き声で春の夜はあける。そのほかいろんな鳥の鳴き声がひびきわたる。だが、いまはもの音一つしない。野原、森、沼地――みな黙りこくっている。"
「沈黙の春」より
*元タイトルは、"Silent Spring"です。
それでも「公害」は、住んでいる場所の近くで被害が起きるので、基本的には国内の問題だったんです。もちろん、解決のために協力はしましたが、国際的な課題ではありませんでした。
しかし、ヨーロッパでは、イギリスや中欧の工場排煙が北欧に流れて産業公害、とくに酸性雨の被害が増えていることが指摘され始めてきました。「公害」が国境を超えた事実が研究発表され始めたんですね。そのため、北欧、とくにスウェーデンにおいて「酸性雨などの国際環境問題こそ国連で扱うべきだ」との主張が世論の中で大きくなり、ストックホルムで人間環境を扱う国際会議を開く機運が高まったわけです。
「公害」は決して過去のものではなく、今も各国の課題です。
SDGsには、「公害」から得た教訓を多分に盛り込んでいます。
個人的には、ストックホルムは国際学会でノーベル賞晩餐会で有名な「黄金の間」でディナーをした思い出の地です。サステイナブル都市でも有名です。歴史を知ると、なるべくしてなったことが分かります。
公害がほしいからの対話
皆が一つになるには、キャッチ―なコピーが欠かせません。例え、中身がないとか、スローガンに過ぎない、と言われようと言葉があることで、深まっていくわけです。かけがえのない地球(Only One Earth)は、まさにその役割を果たしたと思います。
先進国は、「公害」というだけでは内政干渉になる可能性がありましたが、地球という観点でまとまる可能性がありました。
しかし、大きな問題が立ちはだかりました。途上国が猛反対したのです。その論理は明快で、公害対策なんかしていたら、貧困問題は解決できない、という理屈です。元上司いわく、「都市化や開発が進むなら、むしろ公害がほしい」と公然と話すような状態だったそうです。いわゆる南北問題です。
ここで、国連事務総長のウ・タント氏、議長となるモーリス ・ストロング氏が地道な交渉を続け、開催にこぎつけるわけです。その際、かけがえのない地球(Only One Earth)と人間環境(the Human Environment)いうキャッチコピーが拠り所になったようです。
開催はされたものの、「南」側は、大きな不信感を抱いていたようです。「北」側からの環境政策要求に対して、新植民地的でまったく非合理的なものという烙印を押しました。当時、環境保護の論議はすべて「北」の豊かな先進国の問題でした。「南」の国々からみれば、自国の経済成長を最優先課題だと考えていたのもうなずけます。
インドの首相であったインディラ・ガンディーの演説の一部を紹介します。当時の状況を踏まえれば、とても納得できる主張です。
「私たちはこれ以上環境を貧しくしたくはありませんが、しかし、大勢の国民のおそろしいまでの貧しさを一瞬たりとも忘れることができません。「貧困と欠乏こそ最大の汚染源」ではないでしょうか。(中略)貧困状態の中では、環境は改善されることはできません。また、科学技術を利用することなしには、貧困は根絶されることはできません。」
(『人間環境宣言―改訂版』金子熊夫編より)
同時に「南」側は、会議において「北」側に主導権を握られることは、どうしても避けたかったのも事実です。「南」側は、貧困問題を最重要問題に据えることで、「北」側に対抗しようとしたんです。
これが、SDGs・ゴール1でまっさきに「貧困をなくそう」が位置付けられることにつながるんですよね。
もう一つこぼれ話です。社会主義諸国は、環境問題を資本主義と帝国主義の問題であると宣言し、会議への参加を拒否しました。さらに公害なんてないと吹聴していたようなんです。でも、実際は、社会主義諸国も「公害」にも「貧困」にも苦しんでいました。元上司は、それを一般紙で発表し、話題を呼んだとよく話していました。
こんな状況の中で、国連は、「環境」と「開発」による「貧困」脱却に真正面から取り組むことを決意します。そして、「かけがえのない地球 (Only One Earth)」というキャッチコピーで各国を何とか議論の土俵に乗せ、合意に向かわせたのがストックホルム人間環境会議でした。
補足して伝えたいのは、政治的な思惑はたくさんあった一方で、この時点で、「公害」、「貧困」、「かけがえのない地球 (Only One Earth)」をめぐる専門家の知見はすでに多く蓄積されていたことです。
そうでなければ、成果にはつながらなかったでしょう。
今につながる芽がここで撒かれたんです。50年前に!
立場の違いを表明する
1972年のストックホルム人間環境会議の成果は何だったのか?
元上司が、会議の参加前後の日本の環境行政を振り返った書籍でまとめてくれています。それを足掛かりに自分の言葉で書き留めます。
結論、5つが重要だったと総括しています。見取り図として示します。
1.各国代表演説で立場の違いを確認
2.人間環境宣言の採択
3.環境問題のための新機構の創設
4.国連環境基金の創設
5.世界環境デーの制定
この成果が、50年かけてSDGsへと発酵していくわけです。
1.各国代表演説で立場の違いを確認
まず、ストックホルム人間環境会議の開催時の国連事務総長ウ・タントさんが打ち出した「人間環境に関する諸問題」の一部を紹介します。1969年に出されたものです。
「国連における討議を通じて、人間の環境に危機が迫っていることが、
人類史上、初めて強調された。
この危機は、先進国をも発展途上国をも一律にまきこんでいる
全世界的な規模のものである。(中略)
もし現在の傾向がつづくならば、地上における生命の未来が危険に
さらされかねないことは、しだいに明白になりつつある。」
それに対し、当時外交省の担当官として国連人間環境会議に参画していた金子熊夫氏の言葉を紹介します。この会議の国内報告書を取りまとめた方です。この報告書を読むとすごい編集力で圧巻です。
「準備委員会の審議が始まってからは毎日驚きの連続であった。テーマは“人間環境”と決まっているものの、具体的にそれが何を意味するか、誰にも分からない状態で各国の代表が発言するのだから、大変である。(中略)流派も趣味も違う大勢の画家がひとつのキャンパスに思い思いの絵の具を叩きつけているようで、はたしてどんな絵が描きあがるのかまったく見当もつかない。」
当時の日本は、産業公害こそが「人間環境」そのものでした。そのため、1971年に発足したばかりの環境庁(省になる前)の大石武一長官は、次のような演説をしました。一部、抜粋します。ちなみにウェブで全文が読めます。とても意義深い、高尚な演説です。
「たび重なるこのような悲惨な経験を通じて、日本国民の間には深刻な反省が生まれてきたことは当然であります。
『だれのための、何のための経済成長か』という疑問が広く住民、自治体から提起され、健康で明るく豊かな生活環境を取り戻すことを求める国民の声が潮の満ちるように高まったのであります。
このような情勢のもとで、経済成長優先から、人間尊重へと、わが国の政治は、その方向を大きく変えることになったのであります。」
しかし、ストックホルム人間環境会議で各国の代表が演説をし「国際化」せざるを得なくなりました。「人間環境」に含むべき事柄が多岐にわたっていたのです。
「公害をほしい」という途上国の貧困と公衆衛生、熱帯雨林、原住民の人権、海洋汚染も「人間環境」だと理解するようになり、その後の環境政策にの影響は大きかったと思います。
これは何も日本に限ったことではありませんでした。それぞれの国が「人間環境」を喧々諤々と議論し、「かけがえのない地球(Only One Earth)」のためにできることを演説し、他国の演説を聴くことで理解を深めました。
ここでの各国、各グループの演説が、その後の「人間環境」の方向性を明確にすることになります。
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2.人間環境宣言の採択
そのうえで、事務局長を務めたモーリス ・ストロング氏を中心に素案をつくり、各国がまた意見をぶつけ、という国連の合意形成のプロセスを経て、最終的に「人間環境宣言」へと昇華されました。
最初の金子氏の文にある状況から宣言としてまとめ上げる力量、すごいですよね。ここでの経験と信頼からストロング氏は、1992年リオネジャネイロ地球サミットの事務局長を務めます。SDGsの産みの親の一人であることは間違いありません。
ストロング氏はじめ関係者の皆様に感謝ですね。
ストックホルムでは、何が話し合われたのか?
会議では、次の6つの主要テーマに絞り、議論を重ねたようです。
①人間居住問題
②天然資源管理問題
③国際的な環境汚染問題
④環境教育、情報、文化問題
⑤環境と開発の問題
⑥国際的機構問題
この当時、今ほど国際的な人の移動がない時代でした。そして、インターネットもないわけです。
「北」側の高官が、途上国の置かれた現状を把握するのも、断片的だったでしょう。
「南」側の高官は、「北」の豊かな暮らしを知るエリートが多かったでしょうが、その負の側面に目を向けることは少なかったと思います。
お互いの状況を把握しないで、対話により落としどころを見つける必要がある状況でした。
かけがえのない地球(Only One Earth)の理念や人間環境が大事なのは、よく分かる。
でも、相手の言い分は腑に落ちない。そんなジレンマだったと思います。
結果的には、そんな同床異夢が、合意をもたらしたともいえます。異夢の部分を切り取って、過小評価できることもできますが、一緒にいられる同じ床を共に創りあげた経験が、「人間環境宣言」の最大の意義だったと私は理解しています。
宣言の中身を見てみましょう。たった?6ページなんですよ。Amazonのジェフ・ベゾスの会議資料ルールと同じ分量です。なんとなく、興味深い点です。ちなみに、外務省によるSDGsの訳は、37ページです。
ただ、国連の文章は、いわゆる文系文章と言われているものです。曖昧で、数値的なファクトが書かれません。SDGsも本文自体は同じです。ですが、数値目標が別途あり、それが50年の進化です。ですが、曖昧さは、最初の合意にはメリットになりました。
さて、中身の話です。まず、宣言の中で、「共通の見解」が述べられます。7項目が指摘されており、ざっくりと整理すると、次の項目です。
①人間と環境の関係の理解
②人間環境が、人々の福祉と経済発展の主要課題との認識
③生物圏への影響を考慮する必要性
④途上国と先進国の格差の是正の重要性
⑤産業、科学技術社会の進歩への期待
⑥世界が転回点との認識と将来世代のためも平和と発展
⑦政府・自治体の責任と国際間の共通の利益への着目
そのあとに原則として、26項目が各論として挙げられています。17ゴールでも多いのに!!覚えきれないですね。覚える必要ないですけど。
〔環境に関する権利と義務〕
〔天然資源の保護〕、〔再生可能な資源〕
〔野生生物の保護〕、〔非再生可能資源〕
〔有害物質の排出規制〕
〔海洋汚染の防止〕、〔経済社会開発〕
〔開発の促進と援助〕
〔一次産品の価格安定〕
〔環境政策の影響〕
〔環境保護のための援助〕
〔総合的な開発計画〕、〔合理的計画〕
〔居住及び都市化の計画〕
〔人口政策〕
〔環境所轄庁〕
〔科学技術〕、〔教育〕
〔研究開発の促進、交流〕
〔環境に対する国の権利と責任〕
〔補償に関する国際法の発展〕
〔基準の設定要因〕
〔国際協力〕
〔国際機関の役割〕
〔核兵器その他の大量破壊兵器〕
どうでしょうか?人間環境宣言が、「SDGsの原型」というのもうなずけますよね。多くが重なっています。
一方、時代が変わり、重点分野も移り変わった部分があります。
この時点では、気候変動の影響は認識されていませんでした。マイノリティーへの配慮、地域の重要性などは盛り込まれていません。徐々に拡張と深化をしていきました。
宣言自体は、11日間の議論を6ページにまとめたものです。
その後、共創的に世界的な議論へと発展していった点が大切でした。
そこに科学が貢献した点は、以下の記事にまとめています。
なお、この宣言は、会議の場でいちから、話し合って創りあげたわけではありません。この点は、強調しておきたいです。
たたき台がありました。会議の事務局長モリス・ストロングが、環境問題の専門家バーバラ・ウォード、ルネ・デュボスに委託し、専門家の知見をまとめ上げていました。それが、『かけがえのない地球―人類が生き残るための戦い(1972年)』という書籍・報告書です。作成の際には、世界58カ国152人の専門家との意見交換、修正を行っているんですよ。
3.国連の環境担当、4.基金の創設
5.市民との連携の芽
3つの会議後の展開を整理します。3.国連内に環境担当が出来たこと、次に、4.環境問題に投資するための基金を創設したこと、最後は、5.「環境の日」の制定です。最後のは、「アース・デー」と絡めて、解説します。
この3つの重要な点を比ゆ的に書いてみます。
例えば、会議して立派な経営理念を掲げたとしても、それを実施する部署と予算がなければ、実現不可能ですよね。さらには、顧客、取引先、投資家、従業員の意見に耳を傾けなければ、独りよがりになりかねません。
だから、組織の理念の実現には部署と予算、そしてコミュニケーションが必須だと思うんです。
それを踏まえて、国連の話に戻ります。まず、 UNEP(United Nations Environmental Problem、国際連合環境計画)、通称「ユネップ」が1973年に設立されます。最近、方式が変わりましたが、日本は設立から継続的にUNEP管理理事国でした。
そして、事務局の運営と主な事業費を賄うための環境基金が設立されます。環境に関連する基金は、どんどん膨らむ傾向があり、時に批判を受けたりしました。限られた公的資金の優先順位を決めなくてはいけず、その公平性と透明性が試されていきます。これは、UNEPは、説明責任果たすことで鍛えていきました。
最近は、企業の取組も変わり、ESG(環境・社会・ガバナンス)投資で民間資金が投入されることが増えましたが、当時は公的資金が多大に必要でした。その経験は、確実にESG投資の枠組みづくりに寄与しています。その視点は、結構大事なところです。
国連は巨大な行政組織です。その中で、環境問題を扱うプロフェッショナルを雇用し、対策を講じる予算を得たことは、画期的でした。もちろん、官僚的な弊害を指摘されることもありますが、第一歩ですよね。そこから、かなりの労力をかけて、UNEPはパリ協定やSDGs策定に尽力していったわけです。
もう一点、UNEPは、国連で始めて途上国に本部を置いた機関でした。ケニア共和国のナイロビにあります。これは、これまでの記事を読めば、納得がいくと思います。先進国の生活環境の改善だけでなく、途上国の開発も忘れるな!!、生き物のことを忘れるな!!という強いメッセージだと思います。
最後にコミュニケーションの部分を書きます。ご存じでしょうか?6月5日は、「環境の日」なんです。これは、ストックホルム人間環境会議の際に日本が提案し、採択されました。元上司が「私が提案した」と言ってました。
ですが、その理由が興味深かったです。
4月22日「アース・デー」はご存じの方、多いのではないでしょうか。渋谷で集まったりしますよね。その開始年もこの時期なんです。1970年です。
アメリカの上院委員・ゲイロード・ネルソンが学生に討論する機会を提供し、地球のことを考える日を提唱し、実現しました。そして、スタンフォード大学の学生だったデニス・ヘイズが開催、取りまとめに尽力して、大学を辞めてまで普及に努め、今に至ります。
ちなみに、音楽フェスの元祖「ウッドストック」は、1969年に開催してます。スティーブ・ジョブズは、1972年にハイスクールを卒業しています。この頃は、「カウンターカルチャー」全盛期で、血気盛んな若者が多かったのです。
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©PIXTA
そして、その時、「WHOLE EARTH CATALOGUE」が若者たちのバイブルだったわけです。以前、少し記事にしました。
そして、元上司いわく、「「アース・デー」での若者の声が、国連の定める「環境の日」で受け止められるように、と考えた」そうです。もしそうであるなら、そうやって対話の機会をつくる機運は、すごく重要で、今に活きていると思います。
どうでしょうか?50年も前のストックホルム人間環境会議の成果がSDGsにつながっていった。少しずつ、物語り、ストーリーになってきたと感じてくださると嬉しいです。
ここまで表立った国際社会の動きをまとめました。この間、いろんな方が今の社会と関係するアイディアや実践をたくさんしてきました。次回は、そこを整理した記事を『SDGs史70年代後半編』として記事にします。
長文をお読みくださり、ありがとうございました!
「世界を変えるお金の使い方(Think the Earth Project編)」に基づいて100円単位~数万円単位でできること、50項目を実行し、その報告を記事にします。 「毎日使う100円玉にも世界を変える底力があります(P11)」 応援、ありがとうございます!!!!