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アンゴラ&モザンビーク

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1990年代後半のアンゴラ共和国やモザンビーク共和国の様子や現地での経験、その後の変貌などをマガジンにまとめていきます。 ヘッダー画像は南部ウイラ州とナミベ州を結ぶいろは坂、否、… もっと読む
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#アフリカポルトガル語圏

1997年当時のアンゴラ共和国(1)

私が初めてアンゴラ共和国を訪れたのは1997年のことでした。 終戦が2002年ですので、まだ戦時中のことです。 パリでビザを取得し、日付けが変わった夜半に出発するエアフランスに乗り込むと、隣にはすごーくおしゃべりなテキサス人の石油屋のおっちゃんが 座っており、話し掛けてくるのでしばらく相手をしたものの、周りにも迷惑だし、なんてったってテキサス弁は解り難い…。どうにもこうにも辛過ぎたので、仕舞いには寝たふりをしてしまいました…。ソーリー、おっちゃん! 目が覚めると早々に朝

1997年当時のアンゴラ(2)

この記事は「1997年当時のアンゴラ(1)」↓ の続きです。 当時のルアンダの「Marginal (マルジナーウ)」と呼ばれる海沿いの目抜き通りには、ほとんど店らしい店もなく、商店であったであろうショーウインドーも空っぽで店は閉ざされていました。 現地の人に聞いたところ、前年に思いもよらなかった市街戦が繰り広げられたのを機に、商店主等がヨーロッパなどに逃げてしまったのだということでした。 こういった裕福層が国外に退避していたことも、道が空いている原因の一つだったというわ

海辺でくつろぎながら、タイム・イズ・マネーを目の当たりにする

2002年に内戦の終戦を迎えたアンゴラは、その後高度成長期を迎えました。 交通インフラや高層ビルの建築ラッシュが始まると、道路は混雑を極め、1997年には車で5~6分だった距離を1時間以上掛けて移動するようなこともザラになりました。 2004年頃からつい3~4年前までは、ビル建設のタワークレーンが一機も 写っていないルアンダの町並みを写真に納めるのが困難だったほどです。 (今も建設ラッシュは続いていますが、出来上がったビルが増えた分タワークレーンだらけではなくなっています

「My ship is sinking.」「え~っ?!」な話

画像:<a href='https://ja.pngtree.com/so/タイタニッククリップアート'>タイタニッククリップアート pngから ja.pngtree.com</a> アフリカに行くと、なにかと北朝鮮のプレゼンスを感じることが多いです。 あちこちの国で、 港に北朝鮮船籍の船が停泊していたり、 町のどこからも見える高台に、北朝鮮により 建造された特大サイズの銅像があったりするのです。 なんでも北朝鮮の銅像製造技術がアフリカで大ウケしているのだとか。 ある

モザンビークの空は本当に青かった

トップ画像:Jakub WoźniakによるPixabayからの画像 私が初めてモザンビークを訪れたのは1997年の12月でした。 例によって事前情報が乏しい中、渡航準備を進めていると、とある同業者 から電話がありました。 「モザンビークの○○州へ行くのよね。 実は、前回私が行ったので、 今回も私が行くことになっていたのだけれど、 あんな恐ろしいところへは二度と行きたくないから断ったの」 と…。 画像:<a href='https://ja.pngtree.com

アンゴラ と モザンビークはどう違うか

トップ画像:IjimakiによるPixabayからの画像 アンゴラかモザンビークかと聞かれたら、私は断然アンゴラが好きなのですが、日系ブラジル人の同業者でも私と同じように感じる方にお会いしたことがあります。(無論、モザンの方が好きという方にもお会いしたことはありますが。) 同じような用件で訪れたお役所系の訪問先の事例をご紹介します。 アンゴラの場合挨拶もそこそこに、 「必要な資料やデータについてのメールは確認している」 メールをプリントアウトしたものを手に、 「そ

人は子供の時から扱っていないとハサミが使えないと知った話

トップ画像:ナカムラスポーツさん from Illust AC 独立戦争と内戦を合わせると、30年以上戦争をしていた アンゴラ共和国でのことです。 私たちの事務所で掃除や水汲みといった 雑用係をしていた若い女性が、 一連の作業が終わってしまうと とても退屈そうになってしまうので、 壁に貼る大きな手作りサイトマップ作りを 手伝わせようということになり、 プリントアウトした文字を ハサミで切らせてみると、 なんと! 「ハサミなんて使ったことない」とのことで、 右手に

停戦状態とは平時に戻ったということではないことを肝に銘じるべし

トップ画像:Eddy SilvaによるPixabayからの画像 ある時、アンゴラ共和国へ向かう事前の打ち合わせの際、 「現在、停戦合意が守られていないことを不服として 国連機関がアンゴラから撤退中です」 との連絡がありました。 停戦中ということになっているのに、 一部戦闘が続いているという、 歪な状態が続いているとのことなのです。 「そうか、普段だと、UNHCRだの、FAOだの、UNDPだのの車両を 多く見掛けるルアンダ市内にそれらがいないんだな。 いつもUNピープ

アンゴラの自然保護区は象さんもキリンさんもシマウマさんも国外産

30年以上戦争が続いたアンゴラ共和国は、 内戦が終わってみれば、家畜は勿論、 野生の動物も食べられたり、地雷の犠牲になったりで…、 樹木に至っては、街路樹までもが 薪に使われてしまったりで…、 それはそれは 究極のないない尽くしの ひどい有様になっていました。 平和なカーボベルデであれば、 犬だかヤギだかわからない動物(笑)の半分はヤギですし、 田舎道を走っていると家畜が出てきて、急ブレでーキ! なんてことも当たり前にあるのですが、 2002年に終戦を迎えたアンゴラは

アンゴラで目の当たりにしたブラジル流雇用促進術に感銘を受けた件

ブラジルでは1980年代後半からお目見えして 今ではお馴染みの「キロ飯 (comida por quilo)」こと、 「量り売りレストラン」。 好きなものを好きなだけお皿に取って、秤に掛けて、 その重さの分だけ支払うバイキングシステムで、 日本顔負けの短いお昼休みでもゆっくり食べられるので、 都会では今やウィークデーのランチタイムは どこのレストランもこのスタイルです。 一方、 アフリカに通うようになると、 どこも注文が入ってから準備を始めるので 待ち時間が非常に長く、

虹色イグアナ

トップ画像:Hans BraxmeierによるPixabayからの画像 あるとき、 モザンビークのとある港の護岸に それはそれは大きくて立派なイグアナがいました。 そのイグアナは虹色で、 その虹色が グワングワンと動いていて 実に幻想的! これは写真に納めなければと、 バッグをごそごそと探り デジカメを引っ張り出し、 いざ撮ろうと 一歩踏み出しつつカメラを構えた途端、 それまでフリーズしたまま グワングワンと色替えをしていた イグアナ君は、 ものすごい勢いで 逃げ

ヨハネスブルグ⇔マプトのフライト時間が長くなった件

トップ画像:Nowbowさん from Illust AC 私は今までにモザンビークを30回以上訪れており、 いつも首都マプトからわずか400キロ程度しか離れていない 南アフリカのヨハネスブルグから飛行機で入国します。 ヨハネ⇔マプト間のフライトの所要時間は、 機体にもよりけりではありますが、 初めて訪れた1997年から5~6年間程度は、 いつも1時間以内でした。 ところが、 それ以降、同じフライトが、 1時間半程度、 場合によっては3時間以上掛かるようになってしまい

1990年代、モザンビークの国内線は一日置きの山手線形式だった

トップ画像:mimiminekoさん from Illust AC 私がモザンビークに「通い」始めた1990年代、 モザンビーク航空(LAM: Linhas Aéreas de Moçambique) は 2機しか飛行機を所有していませんでした。 その2機を駆使して、自国と南アフリカを結ぶ国際線と、 国内の各地を巡る国内線を賄っていました。 国際線については、南アフリカのヨハネスブルグという 唯一の往来先ですから、至ってシンプルです。 一日置きにマプト⇔ヨハネ間を一往

モザンビークで動き出した飛行機を止めて乗り込んだ話

その時は モザンビークの首都マプトから1500キロ弱離れた町にいました。 マプトへ戻る飛行機のチェックインをしていると、 滞在中お世話になった、その町に住んでいる邦人の方がやってきて、 「皆さんの乗る飛行機が マプトをまだ出発していないとの連絡がありました。 今日の飛行機は、途中の町に寄ってからこちらに来るので、 現時点でマプトを出発していないということは、 最低でもあと3時間はこちらには到着しません。 ここにいたのでは飲み食いするところもありませんから、 よろしけれ