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1997年当時のアンゴラ共和国(1)

私が初めてアンゴラ共和国を訪れたのは1997年のことでした。

終戦が2002年ですので、まだ戦時中のことです。

パリでビザを取得し、日付けが変わった夜半に出発するエアフランスに乗り込むと、隣にはすごーくおしゃべりなテキサス人の石油屋のおっちゃんが 座っており、話し掛けてくるのでしばらく相手をしたものの、周りにも迷惑だし、なんてったってテキサス弁は解り難い…。どうにもこうにも辛過ぎたので、仕舞いには寝たふりをしてしまいました…。ソーリー、おっちゃん!

目が覚めると早々に朝食の機内食が出て、飛行機が高度を下げ始めると、窓からは、かつては農地として利用されていたのであろう痕跡の残る荒地が広がっているのが見えました。

そして、あれよあれよという間にアンゴラの首都ルアンダに到着です!

滑走路脇に駐機しているのはボロボロのアンゴラ航空機が1~2機、軍用機が数機、そしてWFPとUNICEFだったかな?の機体が数機のみで、他国の旅客機は一機も見当たりません。入管手続きカウンターはボロボロの教壇のような木造で、手荷物受取所のターンテーブルは動いておらず、自分の荷物が人力で運ばれた地点まで取りに行くシステム。また、独立戦争の終戦後は社会主義が長らく続いた上、直後に内戦も始まったこともあり、普通の空港ならば必ず見掛けるウェルカムボードも広告の類も一切ないことも印象的でした。

でも、何より驚いたのが、ビジネスクラスは満席だったのに、飛行機を降りてみると、それがほとんど全乗客で、エコノミークラスはガラガラだったということに気が付きました。当時のアンゴラ便なんてものに乗るのは、アンゴラのお偉いさんと、国連や各国の援助機関関係者、そして石油業界関係者くらいのもので、しかも安全を考慮して、若い人でもビジネスクラスで渡航することが義務付けられていたからです。

結果、折角乗せて貰った生まれて初めてのビジネスクラスだったというのにこれだったら、ひょっとするとエコノミーで横になって来た方が楽だったのではないかなと一瞬思ってしまいました。>笑

外に出てみると、おじいちゃんドライバーが待っており、古ぼけたボロボロのビルや古ぼけた家屋が立ち並び、車がほとんど走っていない埃っぽい道路を走りホテルへ。

着いたホテルはプレジデント・メリディアン・ルアンダ。これもまた「よくメリディアンを名乗るワ」と言いたくなるほどボロボロで、エレベーターは建設現場にある仮設のものではないかと思うような小さなものが2基のみ。しかも、スマート仕様になっていないので、呼びボタンを押すと両方ともが反応して呼ばれた階に向かってしまいます。

建物は、別の入り口から入る5階までが雑居オフィスビル(港の目の前なので、そこに日本の船会社や商社も入っている)になっており、6階・7階が食堂などの共有スペース、8階からが客室になっているのですが、それが なんと26階まであるのです。頻繁に停電するので、来ないし、恐いし、何度自分の部屋のある階まで歩いて上ったか分かりません、20数階分…。ちなみに朝は仕事に遅れては大変ですから、必ず歩いて下りていました、

そんな状況にありながら、宿泊料金は朝食付きで一泊200米ドル強。朝食はブッフェスタイルの食べ放題だけれど、野菜などは取るのが気がひけるほど少量で、パンは何気に黒ずんでいてパサパサ、バーで水や清涼飲料を買うと一本5米ドル程度、ファックスを送ろうとすると最低料金が15米ドルと、何でも高くて大変です。

部屋に置いておく水などを買いに行こうと近くのスーパーへ行ってみると、そこはまるでペレストロイカ直後のロシアのハイパーマーケットのようで、
ガラガラの棚のところどころにポツっ…、ポツっ…と商品が置いてあるだけでした。

「戦争で物がない」とはこういうことだったのかと、初めて理解しました。

念のため、戦争で物が手に入らなくなる理由について、少しだけ記します。戦争地帯には言うまでもなく様々な危険があります。特に物流を担う道路、鉄道、橋梁、港湾などは狙われやすく、このアンゴラでも橋という橋が吹き飛ばされ、港にも機雷が仕掛けられて船が吹き飛び護岸も被害を受けたという事例が何件もありました。道路や鉄道沿いは地雷だらけです。

戦争の最中でも人々は日々の生活を送らなければなりませんので、食糧その他の物資が必要です。アンゴラの場合、もともと陸路物資が入ってくることは少なく、主に海運に頼ってきたのですが、独立戦争に続いて内戦が勃発したことから、かつては自国で生産できていた農産物も生産できなくなって、穀物や野菜などを含む全てを輸入に頼らざるを得ない状況に陥りました。

こうなると、港と空港以外に物資の受け入れ口がありませんが、穀物を初めとする何か何までも輸入するのに航空機を利用するのは現実的ではありませんから海運が物流のカギとなります。しかし機雷があるかもしれない危険な港に荷物を運んでくれる海運会社はなかなかありません。一部の海運会社が「どうしても荷物を運んでほしいのであれば、通常料金にたんまりと上乗せ料金を払え」と言ってきます。この上乗せ料金はリスクサーチャージと呼ばれるもので、このサーチャージ分は、当たり前ですが物価に反映されます。

先ほど話したスーパーなどは、リスクを冒してまで頻繁に在庫を取り寄せることができなかったのでしょう。一方、当時アンゴラでは、とあるブラジルの大手が、ハイパーマーケットを展開していましたが、その会社は、独自の物流経路を有していたので通常通り商品がありました。

ところで、先ほど空港からホテルの道中、ほとんど車が走っていなかったと書きましたので、そのことについても記します。

なにせこの時点で既に30年以上戦争が続いていましたから、ポルトガル時代に走っていた車はとうに使い物になりませんし、平時であれば、RO-RO船 (roll-on/roll-off ship) と呼ばれる大きなランプ付きの船舶で輸入車が入ってくるのですが、車などという高価な品物を満載にした船が危険な港に近寄るわけもないので、国中ほとんど車両というものがなくなってしまったのです。

結果、その時点で町を走っている車は、政府の物、政府のお偉いさんを初めとする特権階級の物、国際機関のもの、辛うじて営業していたレンタカー屋のもののみと言っても過言ではない状態で、言うまでもなくバスなどの公共の乗り物は一切ありません。

庶民はどうしていたかと? 

ひたすら歩いていました。

鉄道はないのかと? 

無論ありません。橋の類と共に一部吹き飛び、線路沿いは地雷だらけです。

アンゴラといえば、鉄道ファンには結構知られているベンゲラ鉄道がある国
ですが、当時鉄道は全て破壊されており、2006年から2009年まで続いた軍隊による地雷除去作業を経て2015年に全線開通、2018年からは、ベンゲラ鉄道の終点で内陸国のコンゴ民主共和国との国境近くのルアウまで全線再開通しています。

さて、ルアンダに戻ります。

内陸部寄りに住み、海沿いの高級エリアで働く人々は、4時頃に家を出て、7時から15時まで昼休みなしのぶっ通しで働き、それから歩いて歩いて帰宅すると既に夜、という生活です。

昼休みをとったり、ときには15時以降も働くのは上層部の一部だけです。

16時から17時頃 「Cidade Alta(スィダードゥアウタ) 」と呼ばれる高台の町を車で通過することがあったのですが、歩道には、うつろな目をした群衆がゾンビのように延々と無言で歩く姿がありました。それがアンゴラの戦時中の「通勤ラッシュ」だったのです…。

つづく

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