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人生は喜劇なのかもしれない

現実は物語りのように美しいままで終われない

本や映画のストーリーはカタルシスを感じるように作られています。

涙が出てくるところではグワッと盛り上がるエピソードや音楽、場面が流れてきて気持ちよく涙が頬を伝っていくでしょう。

ところが現実はそう上手くはいかないモノです。

涙が込み上げてきたところで引っ込んでしまうような言動に出会うし、余韻に浸るゆとりもなかったりします。

私の現実で言うと、呼吸が非常に困難になって来た父が新薬を使うことを希望し、了承されると俄然元気になって来ました。

元気になったと言っても体は上体を少しあげられる程度。元気になったのは精神です。

ありがたいことではあるのですが、動けるわけではないので要求が増えました。

仕事の電話は転送したがるし、受発注は全て報告を要求されます。「何か変わったことはないか?」と一時間に何回も連絡してきます。

本、雑誌、着替え、飲み物…欲しいものがいっぱいで回復して退院する気満々です。

まだ横になった体を縦にするのも難しい感じですし、ステロイドの減薬は時間がかかるから、せっかちな父はまた落ち込みそう…

父の電話とお客様の電話と来客が同時に発生した時はコントみたいでした。人生は喜劇なのかもしれません。美しく涙を流して悲しむなんていう余裕はどこにもないんです。

感情的になっている暇がない中で気をつけていること

仕事を任せられていなかったら、それでも懐かしい日々を思って黄昏れている時間があったのかもしれませんが体力勝負な現状でそれどころじゃなくなっています。

頭フル回転で仕事こなして、体を休めて、鍛えて、表現する心を大切にすることでいっぱいいっぱいです。

心にゆとりが出来た時にたくさん感情を味わうように気をつけています。哀しみやしんどい気持ち、心細さ、そんなものを置き去りにして日々突き進んでいるので時々取り出してあげたいんです。

見向きもしないで冷えて固まってしまう前に時々感じて柔らかくしてあげることを心がけています。

あらためて俯瞰してみるとおもしろい人生かもしれない

ずっと踊りながら生きてきてるから身体で内面を表していきたいのだと思います。

歴史や文学が好きってことは物語りが好きなんでしょうね。

歴史の先生になってバレエの先生になって、身体の使い方を教えているから、教えることも好きみたいです。

人をすぐ好きになるけど恋愛感情は分からなくて、かなり真剣に悩んでいました。今でもよくわからなくて恋愛で悩める人を羨ましく思っています。

踊りに活かせますからね。そういう視点になっちゃうんです。

そんな自分が曲がりなりにも結婚して7人家族の商売屋に嫁ぎ、姑に仕えて嫁修業していた時期もありました。仕方ないと思っていましたね。

ところが、婚家が廃業して核家族となるべく別居。バレエ教師としての人生が始まりました。

私の所属していた舞踊研究所はSNSは禁止、一生ご奉公が当たり前でした。今はどうなんでしょうね。

ずっと踊りながら生きていたかった私は歳を重ねて管理職側に移行する組織の中にいるムリを悟って離れ今があります。

どこまでも浮世離れした人生でしたが、ここに来て資本主義の荒波にドドーンと揉まれています。

でもやっぱり踊り優先なので、何がなんでも会社を立て直したいとは思わないんです。もちろん健全化に尽くすけど、それでも改善しなかったらもう役割を終えた会社なのだろうと思うわけです。

家も土地ももちろん愛情はあるけど、所詮自分の所有物ではないんです。地面は誰のものでもありませんからね。

身体も自分のものではないからメンテナンスして愛情を持って接しています。

そう考えると所有しているものって…ないのかもしれません。

なかなかいろんな立場を経験しているような気がして来ました。1人の人生としては贅沢なことだと感じています。

いつも応援ありがとうございます。サポートしていただいたお礼はアートプロジェクト事業費として創造空間の作成やアーティスト活動、仲間への感謝の気持ちの一部とさせていただきます✨