[ 前編 ]仕事を自分ごとにすると、自分の居場所ができていく|SLOW×Harmonics業務提携記念対談
「仕事はとことん自分ごとにする。」SLOW inc代表でアートディレクターの原大輔と、Harmonics inc.代表で編集者の栗山晃靖は口を揃えて言います。今からおよそ15年ほど前、出版業界の危機が叫ばれはじめた頃に、雑誌のリニューアルを通して二人は出会いました。血気盛んなアートディレクターとかけだし編集者。仕事を通してお互いにシンパシーを感じたのか、不思議と縁が続いていきます。そして満を辞して(?)出会いから15年後の2020年の年末に業務提携を結ぶことになったSLOWとHarmonics。前編では、お互いに対する印象や、仕事に対する考え方をお伺いしました。聞き手はSLOWのスタッフであり、栗山さんの妹分でもある李が担当しています。
雑誌リニューアルが
出会いのはじまり
李 まずはお二人の出会いからお伺いしたいです。
原 BICYCLE NAVI(以下、B-NAVI)という自転車雑誌のデザインをリニューアルする時に声をかけてくれんだよね。そこで出会ったのがこの栗山晃靖という男。俺が35歳で、栗ちゃんはまだ28歳だっけ?
栗山 はい、15年前ですね。原さんがまだシュッとしていた頃…(笑)。すでにSLOWの主で、おもしろい仕事をしていましたね。B-NAVI編集部の先輩と上司が、SLOWがデザインしていた「SPORTLINE.」という雑誌を見て、これかっこいいねという話になって。
SPORTLINE.
原 売れない雑誌ね(笑)。
栗山 (笑)。この雑誌おもしろいやと、僕も思って。さらに、SPORTLINE.がなくなるタイミングでもあったから、SLOWにリニューアルをお願いすることになりました。おもしろいのが、B-NAVIの制作がはじまってみると、SLOWの人たちはいろいろと言ってくるわけですよ。カメラマンはこういう人がいいよ、イラストレーターはこの人を使ってみてよとか。それまではデザイナーというと、素材を渡してただそれを組んでくれる人のイメージが強かったんだけど、原さんをはじめSLOWの人たちは、そもそもの姿勢がちょっと違っていて。編集ラフでわかりづらいところがあれば、電話で質問をたくさん受けるし、追加で素材が必要なら要求される。当時は今よりもアートディレクターという言葉が浸透していなかったんだけど、デザイン側の編集をやってくれる人たちというイメージがすごくありましたね。
BICYCLE NAVI no.24 デザインリニューアル号
原 当時はエディトリアルデザインのアートディレクターはすごくめずらしくて。先駆者でいうと「POPEYE」や「anan」をデザインしていた堀内誠一さんなんだけど、広告のアートディレクターの方がフィーチャーされやすかった。でも海外の雑誌を見ていると編集長とアートディレクターは同格で、一緒に雑誌を作っている雰囲気があったから、さっき栗ちゃんが言ったような素材をもらってレイアウトをするただのレイアウターになるのが俺は嫌だったの。
栗山 (笑)。
原 だから、編集から一緒に考えるようにしていたの。エディトリアルデザイナーはデザイナーのヒエラルキーの中では下の下なんですよ。知能労働者というよりも、ひたすら作る肉体労働者的に見られてしまう。どうせその位置にいるんだったら、なんでもやって下から変えてやるという闘志を燃やしながら、編集者と一緒に本を作り上げていくことを目指していた。B-NAVIでいうと、雑誌をどうにかするんじゃなくて、自転車業界から変えてやろうと思ったの。そこまで見据えた上で、当時の編集長と写真から変えていくべきだとか喧々囂々(けんけんごうごう)してたな。うちは昔から再生屋というか、これからもっと伸びたい媒体からの依頼が多かったんだよね。
栗山 エディトリアルデザインリフォームの匠みたいな(笑)。
原 そうそう。だから編集部にはとことんヒヤリングするし、必要なら彼らのマインドも変えていく。元々いい想いを持っているのに、みんなお仕事としてやっちゃうから、自転車はこうである!という固定概念に自分たちをはめちゃうんだよね。だから伝えたいことを聞きながら、一緒に編集ラフをつくったりもしていたね。
李 デザイナーである原さんが、編集から関わることができたのはなぜですか?
原 若い頃に編集やカメラマン、デザイナーの面々が集まったSteamというグループを作っていて。そこで編集や写真の仕事を垣間見てきた経験はすごく大きいかな。Steamがなかったら、たぶん普通のレイアウターで終わっていたと思う。
栗山 原さんって「俺がやる意味」をずっと考えていましたよね。
原 我が強いからね(笑)。
栗山 あの頃のSLOWのスタッフはみんな20代で元気もあって、それぞれのキャラクターが濃かったな。年も近かったし、あそこでふざけているの楽しかったんですよね。俺が一番仕事できなかったクズだった頃でしたけど(笑)。
李 まったく想像つかないです!
原 初々しかったね。
栗山 思い返すと恥ずかしいくらいに仕事ができなくて。企画会議が大っ嫌いだったし、人前で話すのも苦手だった。毎回上司にお前の企画はダメだ、お前の原稿はダメだって、ボコボコにされ続けていた時期でした。でも当時、原さんに褒められたことがあるんです。
原 え、何?
栗山 B-NAVIで印刷トラブルがあったんですよ。色校正を出したら、写真の上に文字が載っているべきところに載っていなかった。僕は進行担当をしていて、スケジュールに余裕がある中で入稿したのに、さすがにこれはまずいなと思って。文字が載らないと、読みやすいかどうかわからないじゃないですか。ちょうどその時期に印刷のトラブルが続いていたから、これはきちんと指摘しなきゃいけないなと。なんでトラブルが起きるのか、なんでこれがまずいのかを、理路整然とまとめた長文メールを印刷所の偉い人やSLOWのみんなを含めて送りました。すると原さんが「お前おもしろいじゃねぇか」って。
原 そんなこと言ったんだっけ?(笑)。
原大輔(SLOW inc.代表)
栗山 「栗山くん熱いね~いいね~」って。編集者はその頃もブラックな仕事だったし、思考停止した状態で仕事をやらされている人もいる中で、誰かに言われるでもなくちゃんと自分の意思を表明したところを原さんは認めてくれたんだと思います。
1冊まるごとやって気づいた。
雑誌に未来はあるのか
原 B-NAVIを何年かやった後にフリーになったんだっけ?
栗山 4日5日は寝ていないのが当たり前の日常で、だんだん今やっている仕事に未来を感じられなくなって、30歳手前で辞めました。辞めた後の就職の話ももらっていたんですけど、全部なくなっちゃって。だからなしくずし的にフリーになるしかなかったんです。やっぱり最初はなかなかうまくいかないわけですよ。SLOWにも出入りしていたから、僕が出版業界のあれやこれやを原さんに愚痴っていると「栗ちゃん、それが今の君の価値だよ」と言われて。もうバーン!と銃で撃たれたように何も言えなくなって(笑)。満足いかない現状が自分の価値だとすると、それはすなわち努力が足りないんだと簡単にわかる。原さんは本質を伝えてくれて、自分を見つめ直す機会を与えてくれる数少ない大人でしたね。
李 その言葉は刺さりますね。
栗山 そこから僕が32歳くらいの時に「Single Gear BIKE MAINTENANCE」という自転車のメンテナンス雑誌の創刊号を、1冊まるごとやるチャンスがきたの。その頃は自転車ブームで自転車雑誌がバンバン創刊していて。デザイナーも自分で決めるんだけど、デザインチームとはちゃんと話し合いながら作っていかないといいものができないという確信があったし、知らない人たちとのチームはリスクが高い。それで原さんに相談したら「いいよやるよ」と二つ返事で答えてくれて。
栗山さんとSLOWのタッグでできあがった1冊
原 その時に、雑誌を創刊するんだったらトークイベントもやってよと伝えて、栗ちゃんが仕込んだんだよね。雑誌にも出ていたグルーヴィジョンズの伊藤弘さんと、代官山でFIG bikeという自転車ショップを営んでいた中里景一さん、栗ちゃんの3人が、六本木のTSUTAYAで喋ったんだよ。当時はめずらしかった、オンラインでの生配信も同時にやってね。
栗山 当時は若かったし自信もなかったけど、やれやれってすごくうるさかった(笑)。僕は乗り気じゃなかったんだけど、絶対やったほうがいい、やるべきだと強く推されて。なんだかんだ企画を出したらあっさりそれが通っちゃった。
トークイベント生配信のアーカイブ(左が若かりし頃の栗山さん)
原 俺は雑誌にずっと携わっていて、本を出すだけじゃもう売れないとずっと言ってたの。今でこそ当たり前になっているけど、情報としてのWebと、体験としてのイベントが三位一体にならないともう本は売れない。発信することが重要になってきていたから、読者が雑誌づくりの追体験ができるようにとイベントを提案したの。
栗山 懐かしいなあ 。当時の総予算が300万円で160ページ近くあったんだけど、3ヶ月くらいすべてをこの仕事に費やして手元に残ったのは30万円ほどでした。自信にもなったし、雑誌を1冊作ったのは自分の名刺にもなったけど、このまま続けるといつか死ぬと危機を感じて。結果的に売れたから翌年に2号目を出すことになったんだけど、そうすると僕は外される訳ですよ。
李 それはひどいですね。
栗山 ゼロからイチをつくる一番大変なことを全部やったのに、2号目になると「今回からはうちの編集部主導でやりますんで」という話になる。
原 まあ、あるあるですよ。
栗山 それに結局紙の仕事はページ単価だから、食っていけない未来が見えるわけですよね。20年上の先輩も僕とギャラは同じだったりするから、もう雑誌の仕事に未来はないと見切りをつけました。好きだし思い入れもあるけど、企業や広告のお仕事にも声をかけてもらいはじめていたし、おもしろさを感じていたから、どんどんそっちの方向にシフトしていきましたね。例えばWebだと動かせたり音を出せたり、今まで紙で表現できなかったことが全部できるのもすごくおもしろかった。
もっと自由でいい。
自分ごと化する仕事のススメ
李 栗山さんが、そんな風に仕事を広げていけるようになったきっかけをお聞きしたいです。仕事ができなかったと自称する若い頃とは、おそらくマインドが全然違いますよね。
栗山 別人だと思う。たぶん今、当時の自分に会ったらボコボコにすると思う。何やってるの?どう感じるの?って。
原 (笑)。
栗山 変わっていったのは、やっぱり自分ごとにしたからかな? フリーランスなのに雑誌の仕事ばかりやっていると、出版社に縛られてフリーじゃなくなっちゃうんだよね。これじゃだめだと危機感を持ったし、あとは親友が自殺した影響も大きいかもしれない。
原 そんな不幸があったんだ。
栗山 奥さんと子供2人いる親友だったんですけど、彼は僕のことをすごく羨ましがっていました。好きな業界で生きていて、取材であちこちに行きながら楽しく仕事している僕を見て、会うたびに羨ましいと言ってくれていたんです。でもある日、自殺して。だからもっと自由に生きなきゃなと、強く思いました。その頃は子供も生まれて、だんだん守りにはいって雁字搦めになっていて、何で俺はフリーなのにサラリーマンみたいに縛られているんだと悩んでいた時期でもあったので。
李 それから楽しく自由に仕事をしていこうと決めたんですか?
栗山 フリーランスはもっと自由で楽しい職業のはずなのに、いつのまにか自分で幅を狭めてつまんなくしていたんだよね。迷惑さえかけなければ、法を犯すようなことをしなければ、もっと自由でいいんだと気付いた。
栗山晃靖(Harmonics inc.代表)
原 やっぱり自分ごとにすることはすごく大事で。頼まれてもいないのに、自転車業界を変えてやると闘志を燃やしたり(笑)。栗ちゃんは仕事を全部自分ごとにしているでしょ。都合が悪いことには目を瞑って、お金をいただくためになんとなく仕事していると、結局つまんなくなっちゃうの。
栗山 フリーの編集ライターとして仕事をもらうと、つまらないことが多いわけですよ。俺の方がいいアイデアを持っているのにと歯がゆい想いをしながら、誰かが決めた企画をやるしかない。結局、自分が上流に行かないとおもしろいものが作れないとわかってくるから、今度は自主的に企画の提案をはじめるわけ。編集会議の時に「こういうネタがあるからやりませんか?」と提案すると、どんどん採用される。編集部の人に「あ、この子アイデアも出してくれるし、おもしろいな」と認めてもらえると、だんだん引く手数多になってくる。企業案件でもライターの立場から提案する人はあまりいなかったみたいだから重宝されるようになって。仕事の幅が広がるほどに、だんだん自分のマインドも変わっていった。
でもある程度の稼ぎが得られるようになった時に、あ、俺は別にお金持ちになりたくないやと気づいたの。フェラーリに乗って六本木ヒルズに住む暮らしをしたいわけじゃない。社会にとって、意味のある仕事をやらなきゃいけないなって。それでいておもしろいことをやるために、ちゃんと本質をみつめていくようになって今に至るかな。
勇気をもらった、
原大輔の九州での覚悟
李 「Single Gear BIKE MAINTENANCE」が終わった後も交流は続いていたんですか?
栗山 ちょこちょこ一緒に仕事をしていたけど、原さんについて一番印象に残っているのはFountain Mountain(以下、FM)だね。
あれは原大輔という覚悟を見た瞬間だった。
Fountain Mountain
2016年9月23日佐賀県有田町に、SLOW inc.が“Good Place”をテーマにした有田初のコミュニティースペースをOPEN。有田の釜業の職人さんの作品を展示・販売したり、ヨガやお茶のワークショップを開催したり。地域や産業をとり巻くさまざまなカルチャーやライフスタイルを提案・発信する、ネイバーフッド型(地域密着型)のカフェ&ショップとして、2019年まで運営。その後、地元の住民に引き継ぐ。
李 OPEN初日にいらしてましたもんね。
栗山 原さんの号泣あいさつを見ていたからね。あの頃の原さんは俺が何とかしなきゃと、取り憑かれたように佐賀の話をしていたから。僕もいろんな人に会っているけど、口だけの人はたくさんいるの。クリエイター業界の人たちは、こういうことやりたいんだよねとみんな夢を語るけど、ちゃんと着地させられる人ってなかなかいないわけ。そしたらなんとですね、原さんはそれをやってのけました。
原 結局3年で人に渡したけどね。
栗山 それもね、受け継がれているからいいんです。僕の中でFMはすごい衝撃でした。宣言どおりに場を作って、有田という町に風を起こしたことは誰でもできることではない。
原 実はFMをはじめる前は、SLOWの終わり方を考えていたんだよ。まだ42歳だったけど。
栗山 ああ。死にかけていた時期がありましたね。
原 本当に1年間、会社にも行かずにパチンコに通いまくってた。
栗山 会社に電話してもさ、「今日も原いないんです」と、いつも言われていたから。
李 その時期に何があったんですか?
原 もうね、自分が世の中に必要とされていないと閉じてたの。アートディレクターはいらないけどうちのデザイナーは欲しいと言われたり。たぶんエディトリアルの仕事は俺の中では完結しちゃってた。やり切って燃え尽きて、全部つまんないと思っちゃってたんだよね。いろいろ本を読む中で、勝海舟の本の中に自分が必要とされる時は必ず来るんだけど、それでも10年に1回しかないという話があって。そんなもんだよな~と投げやりになっていたら、仕事の打ち合わせで日建設計の人たちに出会った。
李 それが運命的な出会いになったと。
原 あ!みつけた!と思ったんだよね。自分がなんとなく考えていたことと、同じような考えを持つ人たちと出会えた。ものすごく高学歴の人たちだったから、ギャップを感じながらも話すのがおもしろくて。そのうちに、自分のルーツである有田の話になった。有田焼きをつくれるすごい技術を持つ人たちがいるのに、街として寂れてしまっている。そしたら、「原さんが有田をどうにかしないといけないでしょ」という展開になって。はじめはお金もないし乗り気じゃなかったけど、1回バカになってやろうと腹をくくったんだよね。彼らに教えを乞うけど、とにかく答えがないことが答えとしか言われないから、とりあえず食らいつこうと決めて。本を読み漁って、禅や哲学とか、今まで触れてこなかったものをとにかく勉強していった。もうウジウジするのはやめて、勢いに任せて突っ走ってFMを立ち上げたんだよね。
栗山 なかなか簡単にできることじゃないんですよ。行動を起こして人の心に印象を残したのはすごい価値だと思います。原さんの覚悟を見て、「あ、俺もできる」と、すごく勇気をもらいました。
原 あの時は自分がまだチャレンジできることにすごくワクワクしたの。まだまだ拡張できることに興奮していたから、自分の知らないことをどんどん知りたいと思った。たくさん本を読み漁って知識を得て研磨してを繰り返していくと、コアの部分しか残らなくなることに気づいて。本質は自分で見つけ出すしかないんだよね。
[後編へ続く]
後編では業務提携のきっかけとなった九州での案件や、クリエイティブにとって大切なこと、編集者がデザイン会社に入ることによって広がっていく可能性について、お話をお伺いしました。
原 大輔・はら だいすけ
1970年 長崎県生まれ。1992 年明治大学卒業 1997年 フリーのグラフィックデザイナーとして活動。2006年 株式会社スロウとして法人化。2016年 九州・有田にカフェ「Fountain Mountain」オープン。2020年 東京・下北沢にコワーキングスペース「ロバート下北沢」を設立。エディトリアル、広告、webなどをデザインのみならず、企画から携わっている。
栗山晃靖・くりやま てるやす
1978年、鳥取生まれ岡山育ち。東洋大学社会学部卒業後、いくつかの出版社勤務を経てフリーエディターに。広告、雑誌、ウェブ、PR業務など様々な案件に携わったのち「もっと楽しく色んなことをやりたい!」とHarmonics inc.を立ち上げる。趣味はギター、モーターサイクル、自転車、漫画、家庭菜園など。座右の銘は「できる・できないではなく、やるか・やらないか」、「遊ぶときは本気で、仕事するときは遊び心をもって」。好物はうなぎパイ。パクチーと人の名前を覚えるのがニガテ。ひとりは好きだけど、ひとりぼっちはイヤ。
(文:李生美)
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