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試し読み|『Between Blue』

5月19日に開催される文学フリマ東京38にて頒布される同人誌『Between Blue』のサンプルです。

*テキストは作品の途中から抜粋しています。
*本作はBL小説です。


 どうして傘を持ってこないのかと尋ねたら、いつも忘れてしまうとか馬鹿みたいなことを言った。雨に濡れて歩くのは少し寂しくて気持ちいいから。先生もやってみな。そう言って笑った。


 風見はいつも足音だけで気づいて振り返る。廊下の先に俺を見とめて、何かを確かめるみたいにふっとわずかに首を傾げる。何も言わない。風見はあまり話さない。

 自分の傘を持たせておいて、裏門から一本外れた路地まで車を回すと、じきに風見がやってきて助手席のドアを開け、黙って乗り込む。傘をたたむのが下手だから、ここでどちらにしろ少なからず濡れる。要領の悪さに俺はいつも呆れるが、本人は何を気にするでもなく時間をかけて傘を丸める。透明な滴が黒い髪に散る。濡れた手のひらを制服の膝で適当に拭う。
 
 どうにかドアを閉めると、風見はまず学ランを脱ぐ。ワイシャツのボタンを外して、これも同じように脱ぐ。脱いだものはそのまま後部座席へ投げ込まれる。そういう仕草は傘を扱うときよりもスムーズだ。

 風見が動くたびに、汗と、何か甘い匂いが鼻をつく。甘い匂い。彼女のそれとは違う。俺はこの匂いをよく知っている。

 その匂いは、風見がいつか失われていく季節の只中にあることを俺に思い知らせる。俺には二度と訪れることのない時間に息をする風見の熱がそれを匂い立たせて、むせ返るようで、それでもまだ、俺はそれに触れていたいと思っている。
 
 風見はタンクトップまで脱いでしまうとダッシュボードに額を預け、裸の背中を晒したまま放心したように動かなくなった。

「今日、涼しい」

 不意につぶやくと顔だけこちらに向けて、ね、と同意を求める。

「……風邪引くぞ」

 風見は意に介さない様子で俺を見つめたまま、なぜか微笑む。そのまま右腕を伸ばして俺の頬に触れる。指先が耳の縁をなぞり、柔らかく髪をまさぐる。そうしてゆっくりと瞬きながら、頭痛いでしょ、と、尋ねた。

 ほとんど言葉を使わずに、体の距離をゼロにできる子どもだった。あるいはこれもある時期を生きる人間には当たり前になせることなのかもしれない。意味のない、他愛ない触れ合い。求めることにも与えることにも言い訳はいらないのだ。何の説明もなしに、危ういほどに、ただ真っ直ぐに手を伸ばすだけ。

 風見もまた素直な子どもではあった。でもその素直さは、十七歳に相応な分別を欠いていた。

 俺が口を開く前に指先は離れていく。風見はリュックから取り出したTシャツに手早く着替えてシートベルトを締める。

「お待たせしました」

 フロントガラスを打つ雨は勢いを増している。車を出す。風見を家まで送り届ける。

 一年前の梅雨の放課後、ずぶ濡れで歩いて帰る姿を見かねて車に乗せたとき、そこにはどんな意味もなかった。俺と風見のあいだには正しい距離があり、そしてそれしかなかった。俺は風見の教師として、風見は俺の生徒として、俺たちはただ隣り合っていた。決して交わるわけはなかった。俺たちは互いに何も知らなかった。そしてそのまま、そうあるべきだった。

 夏が終わるころ、それが崩れた。

 あの日から風見は当たり前に俺の体へ触れるようになった。車のなかで、俺は制服を脱ぐよう指示した。生徒のままで助手席に乗せておくわけにはいかなかった。自分のしていることが、もはや自分のすべきことの範疇を超えてしまったのを、俺は確かに自覚していた。

 湿った空気は匂いを深める。そして頭痛を呼ぶ。

(続く)


『Between Blue』

完全にアウトな先生が欲しいときってありますよね。

頒布価格:500円
サイズ :A6(文庫) 本文56P
初出  :2021年11月


その他の試し読み

『眠れない夜の彼ら』

『掌編 微熱』

『intimacy』


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(那智)

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