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緩やかに

今日は母の十三回忌。
両親のことは毎日考えるし、悲しくもなる。
でも最近は少し感情の振り幅が緩やかになった気がする。

それが麻痺なのか、区切りなのか、時が解決したということなのか
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

お線香の香りが懐かしく思えてきてて、思い出すのは苦痛なんだけど
何だか、恋しい

私の母は天然で、いつもよく分からなかった。
でも仕事から帰ってきて、夕飯を作り翌朝もお弁当を作る。
お酒が好きで隠れて台所で飲んだりしてた。
夕飯を手伝ってると母が「ご飯は美味しくできても飾り付けが大事。料理というものは目でも食べるもの」と教えてくれた。

私の学校は結構道徳が厳しくて、色んな差別用語を使っては駄目だよと教えてた。私はその日母にこういう授業があったことを報告した。
母は「言葉にそう感じることこそ差別だと思うけどね」と言いながらフライパンを使ってた。

千差万別意見はあろうとも私は理解出来た。

母は海育ちで、色んな魚や貝を知っていて水族館に行くことを嫌がった
理由は全部美味しく見えるから。
父が猟師さんのお土産の鹿肉を持って帰ってきた時に、可愛そうで食べられないと言っていた筈なのに、猪のときは食べた。

後、飽きるほど同じ物を食べる。
手羽先、秋刀魚、銀杏

朝の4時には必ず吐く
現場を怖くて見たことがないから、嘔吐いていたかもしれないけど。
私と父のご飯はいっぱい作ってくれるのに、母の分はいつも少なかったように思う。

ある日母と買い物で二人で自転車を漕いでたら、母の方が溝に寄って行って電柱にぶつかった。
私は一回通り過ぎた後戻った。
どうしたのと聞くと、「電柱がよって来た」とわけの分からないことを言っていた。
いきなり焼肉で氷を焼き始めるもんだから、また天然かと思ってしまったけどあれは母が正解だった。
私の視力が落ちてきて、眼鏡を作りたいって言ったときは
「眼鏡付けてどうするの?」と聞かれた。

でもある日「バカを演じるのも結構しんどい」と言ってた。

けれど上記に書いたことは天然だと今でも思っている。

そして母はきっと寂しがり屋だったと思う。
父が亡くなって母のお節も食べなくなった。
作っても食べる相手が居ないから。

一回忌は過ぎて引っ越して暫くした後、人の良さそうな男性と付き合い始めた。
本当にNOなんて絶対言うことがなさそうな人だ。
私は当時分かってあげられなかった。
好きにさせてあげれば良かった。

私は夢をみた。
元居た家のベッドで私は寝転んでいた。
そして父がふすまを開けて私を見ていた。
ただただ見ていた。

その二日後に母は亡くなった。

お葬式に音楽をかけて良いと言われたので、一緒に好きになってくれたポルノグラフィティのアルバムをかけた。

私はもう大丈夫?息苦しくないだろうか
1000字書いても涙は出ない。
もう特別苦しい日じゃない?

そんな疑念を横に私は
やっぱり薬を全部飲みたい衝動に駆られていく

ごめんね、お母さん。

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