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“たくさんの依存”を作って生きていこうぜ

次女の保育園の入園式が終わって、ちょっぴり感傷にひたっている彫金作家でコーチのぐっちです。一時はなくなるかと思った入園式も、短時間と保護者の制限を設けて開催。やっぱり短時間でも簡易的でも、式典は嬉しい。

ふと。子どもがうまれて、変わったことってなんだろうと考えてみた。
以前書いた通り、「20代と比べてできなくなったこと」もあるけど、増えたこともたくさんある。

その中の一つが、たくさんの人のちょっとの手助け、協力を受け止められる、要請できる。そして私もちょっと手を貸すことができるようになったことだと思う。

いろんな協力を受け止める力があるといい

この保育園にお世話になって丸2年。ちょうど2年前にもこうやって園長の話をおんなじような3列目の真ん中らへんで聴いていた。そっからまるっと2年。たくさんの方面の方との関わりが増えた。

保育園の担任の先生には、日々の生活を支えてもらい、園長先生には全体を見守ってもらっている気がする。保育園のサポートなしに生活は成り立たない。もう感謝!感謝しかない!

毎日ほぼ同じ時間に送り迎えをしているママ友とは、子供の話を超えて、仕事の相談まで乗ってもらったりする。

私たちは築35年くらいのマンションをリノベして住んでいる。なのでうちのマンションは我々の両親くらいの方が多く住んでいる。そんなこんなで孫のように可愛がってもらって、ちょくちょく美味しいパンを届けてくれたり、地方のお土産をもらったりする。お返しに、長女が描いた絵とバレンタインのチョコを持って行ったり、ちょっと多めに作ったお正月のお節を持って行ったりと、東京の下町っぽい繋がりがあって、優しい眼差しを頂いている。

コーチング仲間は、頻繁にLINEしたり、各自迎える試験に向けてちょっとづつ力を出し合って、すごく大きなパワーを作ったりしている。先日の私が闇堕ちした時に話を聴いてくれたのも、回復して響きを加えてくれたのも彼女たちだ。

近所に、とても雰囲気の良い「パン屋で本屋」があって、本屋さんの店長さんとはいつもちょっとだけ挨拶する。本を買っても買わなくても、ちょろっとのぞいて「こんにちわ〜」。店の前を通ったらニコッと会釈。Amazonで定価販売される本は、基本的にこの本屋さんに注文する。パンは美味しくて週2で何かしら買っている。

かかりつけの小児科の先生は、姉妹揃ってお世話になりっぱなし。更に私が看病に疲れた時、「お母さん、よくがんばってますね」と優しく褒めてくれた。この言葉は弱った心に体に、奥の方まで染み渡った。

コーチングのクライアントさんからもたくさんの勇気をもらう。彼らはいつも真剣に自分の未来を変えたいと願って現れる。彼らの話を聴くとこっちも魂が奮い立たされる。

夫にも力をもらっている。たくさんの本を読んで、自分はどう生きたいか、何をして生きていきたいか、目の前の問題はどうして起こるのか・・・そんな問いを持ちながら、仕事と育児を共にやる。時に喧嘩もあるけど、私が本当に困っている時必ず「何があっても大丈夫、僕は味方だ」とだけ確信を持って言う。辛いことがあって誰も味方がいないかも錯覚に陥った時、この言葉はかなり強い。

遠く九州にいる両親とは、もうかれこれ1年会えていないけど、とにかく孫を可愛がってくれる。遠隔で。ついでに我々の心配もしてくれて、ありがとうございます!としか言えない。

ざっと振り返るだけでも、たくさんいろんな人の手助けをもらってなんとか日々を送れていることがわかる。
若い頃「私が頑張ってるからこの生活があるんだ!」なんてハァハァと鼻息荒く生きていた。時々実家に帰った時、その感じの悪さに親はドンびいていたらしい。(悲しい後日談だ)

ちょっとタスケテの要請もできるようになった

先日行った断乳。辛くて痛くてたまんなくて、お迎えの時、保育園の保健の先生に、思わず「タスケテクダサイ…イタイデス…」と泣きついてしまった。結局こればっかりは時間が必要なことで、どうしようもないんだけど、キャベツの葉ぐらいの冷たさのものを当てたらいいって聞いたことある!っていう、よくわからんアドバイスをいただいたが、めちゃくちゃ心が和らいだ。「あぁキャベツ…家にある…なんとかなる…」張り詰めていた気持ちがぐっと和らいだ。

これからの仕事の仕方はどうしようかってなった時も、ひとりで消化できずに、大好きなコーチ仲間を頼って「お願いです。ちょっと時間ください…」と突然のヘルプを出して30分近く話を聞いてもらった。あのヘルプを受け入れてもらえたから、パンク&爆発しなかったんだと思う。

ちょっとした手を差し出すこともできるようになった

ありがたく協力を受け入れることも、タスケテと言えるようになったこともあるし、それに加えて、すんなり手を差し出すことも増えた。

次女を抱っこ紐して長女をお迎え。いつもの保育園からの帰り道。大体同じ時間にお迎えになる長女のお友達ちゃんがその日はちょっぴり不機嫌で、ママ抱っこ!と強めの主張。でも彼女はもう3歳。しっかり重い。それに加えて弟くんはベビーカー。抱っこ紐無しで3歳児を抱っこしてベビーカーを押すってどんだけ辛いか・・・私もよくわかる。

さて、今日はゴキゲンな長女と一緒に「弟君のベビーカー押すよ〜」だっこの代わりはできないけど、ベビーカー押すのはできる。

こうやってお互い様で、ちょっと手伝う。ちょっと手伝ってもらう。ついちょっと前は、忘れ物をして取りに帰る時、長女をちょっと見てもらってた。お互い様。ちょっと助ける。ちょっと助かる。

依存の反対は自立じゃなくて、「たくさんの依存」

これ、わたしの好きなコーチがポッドキャストで言ってた衝撃の言葉。ちょっと名言すぎやしませんか?

このポッドキャストを聴きながら、色々なことが頭を駆け巡り、書かずにいられず、ここまで長々と書いてきた。

ちなみにこのポッドキャストはとてもおすすめ。洗い物をしている間30分、ほぼ毎日聴いている。思考がどんどん「独立」に傾くという不思議な作用あり。夜の寝かしつけの時、このポッドキャストをワイヤレスで聞くことがここ半年ほどの習慣だ。

依存の反対語は、たくさんの依存らしいよ

一般的には、依存の反対語は自立。依存は、他に頼って存在、または生活すること。自立は、自分以外の助けなし、または支配を受けずに、自分の力で物事をやって行くこと。

私的解釈の「依存」は、一つの人や事柄に頼って期待して、もしそれがなくなると死んでしまうぐらい寄りかかっちゃうことだと思う。でもそれって、頼られた方も大変で、ちゃんとを支えなきゃ!とか、俺がいなくなるとアイツ死んじゃうとか、絶対守ってやんなきゃみたいになって、最初はまあ心地よくても、そのうちお互い辛い蟻地獄だ。

「自立」も聞こえはいいけど案外辛い。自分以外のものの助けはない!1から10までやんなきゃってのも辛い。誰にも相談できないし、なんなら弱音も吐けない。全部ひとりで完璧に仕上げないといけないし、困ったとき誰にも頼れない。病気にもなれないし、何より相当窮屈でつまんない。

依存も自立も、どっちもハードだ。

こっからは、自立か依存か、さあどっち!?という時代から、どっちもちょっとづつな分散に変わっていく気がする。だから「たくさん(ちょっとづつ)依存」なんだと思う。私はそう解釈した。

みんながそれぞれ、いろんな人にちょっとづつたくさん依存すれば、ひとりでひとりを支えなくてよくなるから、結局「お互い様」になって、頼る力が分散して、お互いの得意なところをちょっとづつ負担する感じになってかなり楽になる。

依存から自立と独りよがりを経てたくさんの依存へ

親の依存を離れて、社会人になって自立しなきゃ!ともがいた結果、苦しくてプレッシャー半端なくて、逃げ出したくなる20代。結婚して子ども生まれて、一人でやるのは物理的に無理になってヘルプを出して、ちょっとづつのたくさんの手助けを受け入れて、ちょっと手を貸すよ!ってなって、昔より楽に楽しくなったって感じなのかもしれない。

できないことも増えたけど、気楽になって、「まじでありがとう!ほんと助かった!」って心の底から感謝できるようになった。

できるようになったことってなんだろうって考えた結果、こういうことが「できるようになったこと」な気がする。

「依存」の反対は「たくさんの依存」

誰かひとりに頼る、何か一つのものを拠り所にする、雇ってくれた会社に全てを委ねる・・・リスクを回避することも含めて、何か一つに集中するんじゃなくてたくさん助けてくれる人を作っておくって、大事だ。

本気で困った時はきっと誰かが助けてくれる!だからちょっと挑戦してみよう!なんとかなるさ!ぐらいの気楽さもまたいい。

たくさんの人に頼って、頼られて、ちょっとづつパワーを分散して、だからこそ集中できる。そんな生き方がいいなと思った。
いいじゃん!いっぱい頼って、楽に生きていこうぜ!


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