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夏休みは有意義だったかという視点は本質的か?

今年の夏休みも残り10日となった。

今から話すことはちょうど一ヶ月前の僕が思っていたことだ。その時のブログに記していた内容を少しここで再現してみようと思う。

・今年も待ちに待った夏休みが始まった。
これから当分の間は自分の1日の全てを自分の  思ったように使える。
ただそれは言い換えると自分の心がけ次第で毎日が大きく変わってくるということだ。
自由が増えたその分、自分にかかる自らの幸せにに対する責任も増えてくる。
去年と同じようなダラダラした夏休みはもうやめよう。
夏休みという名の独特な誘惑に浸り切ってしまわぬようある程度の"覇気"は常に持ち合わせておこうと思う。


・いくら夏休みが9月中旬ぐらいまで続くとはいえ9月に入ればもう夏休みとは呼べなくなるはずだ。
8月が終わった途端には新学期再会がすぐそこまでやって来ているかのようなそんな感覚がするだろうし、
季節としての夏と長期休みとしての夏、その両方に対する喪失感みたいなものも同時に襲って来るだろうし。

だからこそ今のうちに賑やかで明るいこのひとときを噛み締めておこう。
終わった後に後悔しないように。

多分こんな感じのことを1ヶ月前のブログに書いていた気がする。
時間に自分の身体や気力をダラダラと利用されるのではなく
自分の意志を前提にして時間を使いたいという気持ちが夏休み入りたての頃は特に強かったように思う。

そして今日までの1ヶ月、妥協することなくほぼ毎日を自らの計画や志で埋めた。
7月から打ち込んでいる英語学習に対するやる気も夏休みの名の下に抑えつけずにせっかくなので解放してあげた。
そもそも別に夏休みだからといって無理にダラダラと時間を過ごす必要はないと思ったからだ。
この1ヶ月は夏休み特有の大した思い出も無く
本当にあっという間だったが
自らの意志で時間を過ごせた感覚というのはやはりそれなりに少し自信に繋がっている。

ただ、かといってそこに対して特別な達成感があるというわけでもない。
いくら夏休みという名前で時間を区切られていようが時間は"時間"。
自らの意思で止めたり自らの意思で再生させたりすることは人間には出来ない。
故にいつまでもその過去の余韻に浸っている暇は無い。

また、いくら例年のダラダラとした過ごし方から今年は逸脱出来たといってもそこに対する喜びは遥かに小さい。
あれだけ自分を律して妥協せず夏休みを過ごせたのにもかかわらずだ。
でもいつまでもその事実に落ち込んではいられないし落ち込む必要も殆ど無いと思っている。

結局「今年の夏休みをどう過ごせたのか?」という自己判断というのは僕は本質的に全く意味がないと思う。
なぜなら、これからもこれまでと同じように変わらず全力で走り続けられさえすれば
"夏休み"という期間にわざわざ前提をおいて無理にこだわって過ごす必要が無いからだ。
何も問題ではない。

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