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東日本大震災はエンタメの材料になれるほど既に概念化したのか

設定・世界観こそ魅力あるけど、世に出る時期を誤った感がある。

作家・京極夏彦は『遠巷説百物語』の刊行にあたって、「お化けというのは、災害や戦争、疫病のさなかには、出番がないんです。しゃれにならないですからね。(中略)東日本大震災から10年、まだまともに復興もしてないわけですよ。そこに今回の疫禍です。」と述べている。
被災者にとってはまだ10年。もう10年ではない。ところがこの映画では、まだ出番のないはずの「お化け」を登場させ、あの震災をエンタメ化してしまっている。

私は、東北太平洋側の地域出身で当時をフクシマで過ごした。この映画がそれなりに否定的な意見を浴びさせられるのも無理ないと思う。

一方で今は首都圏に住んでいる私にとって、この映画は、東日本大震災に対する社会の分断を表しているように感じられた。

首都圏にいるとあの震災は確実に過去のものになっているのが分かる。もう歴史の1ページでしかない。

そのため、みなし仮設住宅からの引越しの際のトラブルや就労に関するトラブルなどが報道で取り上げられると
「震災から何年経ったと思っているんだ」「いいかげん…」といった意見が飛び交う。
映画の企画段階でこの震災を扱うことに対してNGがかからなかったのも納得がいく。

被害を受けていない人、立ち直れた人にとっては過去の震災かもしれない。しかしながら、1万8千人ほどの死者を出し、未だに3千人近くの行方不明者がいるこの震災が過去のものになっていない人たちが少なからずいることは、少し考えれば容易に分かることだろう。

この震災を扱った映画は他にもある。『風の電話』、『Fukushima 50』など。
この映画がそれらの映画と大きく異なるのが、予告編及びプロモーション段階で震災が題材であることに一切触れてなかった点である。これはさすがにずるいと思った。
映画の公開直前になって「緊急地震速報の音が鳴るよ、注意してね」なんてアナウンスして、ぎりぎりやるべきことはやった感を出している。

直前までこの震災の存在をオープンにしなかったのは、それが映画の宣伝にマイナスとなることを予測していたからではないだろうか。
試写会勢がこの点に一切コメントしていなかったのを見ると、たぶんここに触れることはNGが出されたのだろう。
(試写会では「この部分についてのコメントは無しで」と指示が入ることがたまにあるので)

今、世に出していい作品だったのだろうか。キャラクター・設定・世界観に魅力がある分、映画ビジネスとしてのやり方に疑問を感じる。

私の感じた疑問は他の人も感じたようでNHKのクローズアップ現代で取り上げられた。しかしながら、この記事はクロ現の内容を確認する前に書いて、投稿することにした。

なぜなら、1つの完成された作品として映画が公開された以上、補足資料的な説明を抜きに観た人が何を感じたかこそが重要だからだ。もちろん、クロ現もこのあと確認する。そのうえで、新たにこの映画について記事を書く可能性もある。補足説明を見聞きして意見が変わる人もいるだろう。それでも、映画としてこの作品を観て、東日本大震災のエンタメ化を懸念した人たちがいるという事実に蓋をしてはいけない。

最後に私が2015年ころに国連防災世界会議でホテルの通訳アルバイトをしていたときに、あるアメリカ人宿泊客から言われた言葉を伝えて終わりにしたい。

「どうして私の部屋の番号が911なんだ。あまりにも不吉だ。」

911は2001年の出来事である。悲しい出来事に対して、「一区切り」は人それぞれなのだ。その現実を無視して、第三者が災害をエンタメ化することが本当に必要なことなのか、作り手は今一度考えてみてほしい。

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