人は零に還るゲームをしている②
我々は、人生を通じて「零」に戻るゲームをしています。
零という言葉を「中庸」と言い換えることができます。
中庸とは、「極端な行き方をせず穏当なこと、片寄らず中正なこと」という意味ですが、中庸の場所に立つことができれば、バランスの取れた人生を送ることができます。
若い頃は、平凡で穏やかにいることは退屈だと思うものです。
そういった思いから、いろんなことに挑戦し、様々な感情を動かしながら、自分の中にある心地よさを見つけるようになって、人は結果的に中庸に近づいていくものです。
中庸とは平凡という意味ではなく、自分が心地のよい場所という意味で捉えるといいのかもしれません。
一見すると平凡に見えるような出来事の中に、実は真実が隠されていたりします。
下の図は、以前書いた「人は零に還るゲームをしている」という記事で使用したものですが、人は零の場所に立つことができると、平和な気持ちで生きていけるようになるものです。
「0」の場所が、自分にとって心地のよい場所といっていいでしょう。
我々は、様々な設定をして生まれてきていると言われています。
男性だったり女性だったり、生まれた場所や家庭など、人それぞれに環境は異なるものであり、全く同じ人物は存在していません。
しかし、我々は、誰もが零の場所である中庸の位置に立つという目的を持って生きているといっていいでしょう。
生れてすぐに中庸の場所に立っている人は、一人もいません。
なぜかというと、生まれた時点で中庸の場所に存在しているのであれば、この世界に生まれてくる必要がないからです。
我々は、ゼロポイントからやってきて、記憶を消してゼロポイントに戻るゲームをしています。
この世界に生を受けた時点で中庸にたどりつくまでの距離は、人それぞれ異なるものですが、最終的には、我々は中庸を目指して歩んでいきます。
しかも一度の人生では、中庸の位置にたどり着けないので、何度も生まれ変わって「中庸」というゼロポイントを目指していたりします。
では、どうすれば中庸の場所に立つことができるようになるのか。
今度は中庸という言葉を「軽柔」に置き換えます。
我々が、軽くて柔らかくなることができれば、「0」に近づいていけるようになります。
重さがなく固さのないものに近づいていけば「0」に近づいていきます。
中庸の反対語は極端であり、極端は重くて固いということです。
我々が重くて固くなってしまうと、中庸から離れていってしまうことになってしまうため、零に還るというゲームを終えることができなくなってしまいます。
しかし、水から水蒸気に変わるように、我々は軽く柔らかくなっていくことができれば、「0」に近づくことができるようになるのです。
では、零に還るゲームをどうすれば終わらせることができるのでしょうか。
この表は、「願えば叶う、エイブラハムの教え」という本に書かれている「感情の22段階」ですが、我々が普段使っている感情を軽く柔らかいものに変化させていくことで、中庸に近づいていくことができます。
こちらは、「パワーかフォースか」という本の「意識のマップ」の中の人の意識レベルを抜粋したものですが、我々が普段使っている意識を上位のものに近づけていくことができれば、中庸へと近づいていけるようになるでしょう。
「感情の22段階」と「意識のマップ」に共通して「愛」「喜び」という言葉があります。
つまり、「愛」や「喜び」は中庸の意識です。
また「感情の22段階」の「気づき」と「意識のマップ」の「悟り」は同じ意味です。
「悟り」とは、大きな気づきといったイメージがありますが、小さな気づきも悟りです。
我々は、そういった大小さまざまな気づきを得ることで、「愛」や「喜び」といった真中の意識に持っていくことが可能になるのです。
Aという考え方しか持っていないと、それは極端になってしまいます。
しかし、Aと異なるBという考え方を知ると、AでもBでもないCという考え方を持てるようになります。
たとえば、アメリカで5年暮らして、その後、イラクに5年暮らしたとします。
すると、アメリカが絶対的な正義でもないし、イラクが絶対的な正義ではないという気づきを得ることができたりします。
こういった気づきが人の考えを真ん中に持ってくるようにしてくれます。
もちろん、AやBといった考え方以外にもC、D、Eといろんなことを知っていくと、どんどん考え方が真ん中に近づいていくものであり、やがて物事を俯瞰して見れるようになっていき、いくつものケースを俯瞰して一つとしてみるようになるのです。
この俯瞰的視点こそが、大きな気づきである悟りです。
こういった気づきが、中庸の意識を生むのです。
また「悟り」によって、「愛」や「感謝」、「喜び」、「自由」、「力があるという感覚」が生まれてきます。
こういった「愛」や「感謝」、「喜び」、「自由」、「力があるという感覚」といった意識こそが「中庸」であり、この中庸が心の平和を生み出すのです。
我々は、小さな気づきをたくさん重ねていくだけで、中庸に近づいていくことができます。
いろんな角度から物事を見ようと試みれば、必ずそこに気づきが生まれ、その気づきによって、我々は中庸の位置である「ゼロポイント」に近づいていくことができるようになっていくのです。
そして、この「ゼロポイント」に近づいていくことで、我々は零に還るというゲームを終えることができるようになるといっていいでしょう。
しかも「ゼロポイント」に近づいていけばいくほど、「喜び」や「愛」、「自由」や「感謝」を感じられるようになっていくものであり、ゴール前が楽しい時期であったりします。
現在は、このゴール間近を楽しんでいる人が、たくさん存在している時代といってもいいかもしれません。
我々は、そういった転換点に今、存在しているといってもいいでしょう。
中庸とは自分を知るということです。
様々な経験から自分を知り、自分を軽く柔らかくしていくことで、我々は平和に過ごしていけるようになるものです。
自分を知るということは外側に惑わされるのではなく、自分を生きるということです。
逆に言えば、自分を知って軽く柔らかく生きれるようになると、外側がどんどん気にならなくなっていくものであり、ますます自分を生きられるようになっていきます。
そうやって我々は、様々な経験を通じて、自分というゼロ地点に戻るゲームをしているのです。
自分とは揺るぎのない自分であり、偏りのない真ん中にいる自分です。
このことを知る前の自分も自分ですが、知ったあとの自分は、知る前の自分とは大きく異なるものであり、知った後の自分の方がより本質に近いといっていいでしょう。
この本質に近いというのが真ん中のゼロの自分であり、中庸の自分となるのです。
中庸とは柔らかくて軽い感覚です。
なので、まずは自分が柔らかくて軽くなれることから始めるとゼロに近づいていけるようになっていきます。
「柔らかくて軽くなれること」とは「喜び」であり「愛」であり「感謝」だったりしします。
「喜び」の道、「愛」の道、「感謝」の道、どれを選んでも構いません。
「愛」とは「許し」であり「受容」です。
人は「憎しみ」を持っていたら軽く柔らかくなることができません。
他者を許し、自分を受容できてはじめて人は前に進むことができるようになります。
許して受容するということは、中庸に立つということです。
「喜び」の道、「愛」の道、「感謝」の道、どれを選ぶかは、人それぞれですが、どの道を辿ったとしても、目的地に到着することができるでしょう。
いずれにせよ、人は様々な経験をし、その中から気づきを得て自分を知ることができれば、自然とゼロに戻ることができるようになっています。
人が中庸に戻る時、自由を感じられるようになります。
なぜかというと、真ん中の場所は穏当な場所だからです。
現在は、多くいの人が本来の自分の場所である「ゼロ」地点に戻るということを自覚し始めた時期であり、ゴール前の楽しい時を過ごしている時代だといってもいいでしょう。
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