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#163 奈良の都の摩多羅神【宮沢賢治とシャーマンと山 その36】

(続き)

全国からもほとんど失われた摩多羅神の痕跡の中で、他にわずかに残されているのが、奈良の多武峰・談山神社だ。

談山神社の御朱印には、今でも摩多羅神の顔が描かれている。談山神社は能の観阿弥が京都へ進出する以前、その庇護者となって能楽の原型のようなものを形作り、神社に伝わる摩多羅神の面は、翁の面だと言う。御朱印の摩多羅神も、翁の顔をしている。

談山神社が位置するのは、古事記や日本書紀の舞台の1つである、奈良盆地の南東部、三輪から南へ下った山中だ。三輪には、卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳や、神話の神が祀られると言われる大神神社など、日本神話ゆかりの場所が数多くある。仏教伝来の地もその近くにある。

談山神社にも未だに神仏習合の気配が残り、神社でありがながら境内には十三重塔がある。神社に祀られているのは、壬申の乱に名を遺す残す中臣鎌足で、蘇我入鹿を討つために、中大兄皇子と密談したと言われる場所もある。

かつては、鎌足を祀るとともに、仏教寺院でもあり、神々を合祀した惣社もあり、神仏が混然一体となっていた。

談山神社に祀られる中臣鎌足が藤原道長に代表される藤原氏のルーツであるためか、権力の変遷によって多武峰を取り巻く環境も大きく変化し、神仏習合の変遷とも相まって、複雑な歴史を持っているようである。

なお、平泉の黄金文化を築いた奥州藤原氏も、ルーツは藤原氏にあるとも言われ、その繋がりも興味深い。そもそも、藤原氏のルーツである中臣鎌足自体は東国の出自で、現在の茨城県にある鹿島神宮の近くの生まれという伝承もある。そして、その鹿島神宮には、奥州藤原氏の東北地方の統治より昔に、岩手の一帯を統治していたと伝わるアテルイではないかと言われる面が伝承されるなど、様々な糸が絡み合い、興味は尽きない。

【写真は、奈良県桜井市 談山神社東大門】

(続く)

2024(令和6)年3月26日(火)


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