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#168 弁慶は海軍司令官の御曹司?【宮沢賢治とシャーマンと山 その41】

(続き)

熊野の入り口でもある和歌山県田辺市の「鬪雞神社」には、弁慶とその父 湛増の像が立ち、神社近くには、武蔵坊弁慶の生誕の地もある。弁慶の父 湛増は、熊野三山の統括者的な役割を果たす「熊野別当」を務めていた。

鬪雞神社に興味深い解説が掲げられていた。少し長くなるが、以下に抜粋する。

「源平の戦いは、一ノ谷の合戦から海上戦に移り、当時最強を誇った熊野水軍の動向が、その勝敗に大きな影響を与えることになり、熊野の水軍の統率者である熊野別当 湛増に対する、源平双方の働きかけは激しさをきわめた。

 義経の命を受けた弁慶は急いで田辺に帰り、父 湛増の説得に成功。湛増は白い鶏七羽、紅い鶏七羽を闘わせて神意を確かめ、(中略)総勢二千余人、二百余の舟に乗って堂々と壇の浦に向かって出陣、源氏の勝利に大きな役割を果たした。」

この説明書きには、いくつも興味深い点がある。

まず、平安時代末期の熊野三山は、当時最強と言われる水軍を持っていたということだ。
熊野地域は、熊野三千六百峰と呼ばれるほど無限に山々が連なる果無山脈に位置しており、山岳地帯のイメージが強い。「三千六百峰」「果無」という言葉に表される通り、言葉では容易に表現できないほどの山々の深さがある。

ところが、山から一歩出ると、東西、そして南と、三方に海を抱える海洋エリアの顔も持つ
最強の水軍が鍛えられたとしても不思議ではない。

そして、熊野三山にゆかりが深い天台密教は、比叡山の延暦寺にルーツを持つ。比叡山と言えば、織田信長の比叡山焼き討ちで知られるが、この焼き討ちは、比叡山にいた僧兵、比叡山の軍事力の破壊が目的の一つであったとも言われる。つまり、寺は信仰と言う側面だけではなく、軍事力も持つ武装勢力でもあった。

説明書きを読むと、熊野地域にあっては、陸軍だけではなく、海軍も保有し、その総責任者である弁慶の父は、海軍長官でもあったと言える。

【写真は、熊野の入り口 田辺市「鬪雞神社」の解説板】

(続く)

2024(令和6)年3月31日(日)


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