「インドラの網」を描いて
インドラの網をご存知でしょうか?
古い神話に登場するアイテムで、実は21世紀においてホットな概念であり、私の制作の世界感とも共通しています。
インドラは、紀元前14世紀には名前が残っているバラモン教やヒンドゥー教の神様で、仏教では帝釈天と呼ばれています。インドラの網は、仏教では因陀羅網(いんだらもう)とか帝網(たいもう)と呼ばれ、帝釈天の周りを囲む装飾として設置されることもあります。
インドラの網とは、インドラの宮殿にかかっている世界を覆うほど巨大な網です。無数にある結び目には宝珠が煌めいています。一つの宝珠の光は他の全ての宝珠に反射し、一つの宝珠の中には全ての光が反射する網だそうです。また、網は一つの結び目を持ち上げれば全体の形が変わることからも、ごく小さな一つは全体を体現し、全体は一つを体現しているという世界感を、インドラの網に喩えています。
一つの結び目が他の全ての結び目を反映するというのはIT分野のP2Pの考え方と似ています。まだ量子コンピューターのない現在では完全には実現できていない技術ですが、これからの世界を変えていく技術であることは間違いないでしょう。アート界隈で話題のNFTも、P2Pの技術をもとにしたブロックチェーンの技術によって成り立っており、他人事じゃすまないようになってきています。次の100年の技術の核となりうるような技術と、はるか昔の神話に出てくる道具に共通する機能があるって面白いなと思います。
宮沢賢治もインドラの網に何かを感じていたようです。「インドラの網」を読んで、現実の風景から唐突に天の世界に紛れ込むシーンに特に共感しました。すべての物事は複雑に繋がっていて、目に見えない世界も目に見える世界に隣接しているというテーマが私の制作のテーマと共通していると思いこの絵を描きました。
化石とは、何万年も何億年も前に死んだ一つの命が、突然目の前に現れます。しかも私のご先祖さまが生きていた同じ瞬間に、その化石の命も暮らしていたのです。もしも、その化石の生き物が私のご先祖さまを食べてしまっていたら、私は生まれていません。
悠久の時流れの全ての事象が私という存在を生み出したと思うと、すごいなぁと思います。過去のどこかで誰かが一つ違う選択をしただけで、私は生まれてこなかったでしょう。生まれてきただけで奇跡ですし、出会う存在全てに感謝できるような気がします。
宮沢賢治も岩石を集めながら、同じような感覚を抱いたのではないかなと思います。
一枚の絵を描くのに、色々考えたり調べたり感じたり想ったりして描くのですが、最後は手の赴くままに描きます。作り出した絵が、当初想定していたものと全然違ってくることも多々ありますし、完成したものに不合理が生じていることもあります。しかし、小説「インドラの網」でも通常見えないはずの天女が横切ったり、壁画の童子と話したりすることも受け入れていたように、頭で考えて理解できないこともあるし、私の目と手がそれで良いというのならそれで良いかなと思うようにしています。
この絵も夜明けの青空というにしては暗いし、高原なのに草がボウボウと生えてるのはどうなのかとか、湖はもっと大きいのではとか色々思うことは出てくるのですが、この絵としての在り方を小さな理屈に押し込めてしまうのも違うと思い、あるがままの姿を尊重しています。作品とは、何か計り知れないものを反映してしまうような気がします。鑑賞する方たちも、この絵に何を見るかは人それぞれだと思います。
分からないことに苛立たず、あるがままで受け止められるよう、頭を捻られたらいいなと思います。
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