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【生命の不思議】胞衣(えな)と日本人の死生観

■前書き


本稿は、生命の不思議や医療、ヒト(というか哺乳類)の死生観、そして民族風習などにまつわる、個人的にはセンセーショナルな話だけど、人によってはグロ注意の話である。そのため避けやすいように、読みにくく、少し小難しく書くことにする。長くなるので敬語も省略する。

■胞衣とは


タイトルにもある「胞衣(えな/ゑな)」をご存知だろうか。あまり聞き慣れないと思うが、これは胎児を包んでいる羊膜・母から子へ栄養を渡すための胎盤・胎盤から胎児へと伸びる管の臍帯(せいたい、へその緒のこと)などの総称である。
胎児の出産のあと、後産として娩出される胎盤は、母体と胎児を連絡する器官。変な話、母親は1度の出産で2度産むとも言える。

胎盤とへその緒の形状は、例えるならば、漏斗(ろうと/じょうご)の注ぎ口にゴム管を繋いだ先が、赤ちゃんのへそに繋がってるような状態で産まれてくる。その見た目は、人によってはグロテスクだと聞いたので注意喚起をしている。
内臓なので、とうぜん一般に快いとされる見た目ではなく、おそらくその見た目だけでグロテスクだと感じる方もおられるだろう。しかし本稿はそのもっと先をいく。
実物を見たい方は、関連する専門用語を部位を複数含めて検索しないと画像が見られない。

医療の場では、胞衣は、胎盤と胎児付属物に分けて考えているようである。
これらは、日本では「産汚物」として扱われており、個人が勝手に処理する事は許されておらず、専門業者である「胞衣会社」が処理している。おそらく対象地域における独占市場だろう。
ちなみに、中絶した胎児のものでも、胞衣はやはり胞衣であり、同様に処理されているようである。

■胞衣の取り扱いや風習


さて、この胞衣だが、関連する民俗風習が各地に存在する。ブラジルではへその緒をバナナの木に入れ、大きく健康に育つよう思いを込める風習があるが、一方で、欧米諸国では意味があるものとして扱われずに捨てられてきた。
日本では、へその緒を保管する風習があったことを知っている方も多いだろう。なにせ、むしろそれを加えた、乳歯・産毛・へその緒・元服時の前髪まで保管していたというのだから。

こうした風習を行った理由については、生命の誕生にまつわることとして高尚なものとして扱ったとか、単に成長のアニバーサリー民族なのではないかとか、色々と言われているようである。
調べた情報のなかでそれらしいものでは、それら成長の過程で出たものが、その子供を守ってくれるという盲信的な観念が、子への慈しみのなかから生まれ出た、といったものである。

また中世日本には、明確な「胞衣信仰」があり、「胞衣納」なる風習・儀式もあったようである。この風習では、埋めたその上にマツを植えていたようだが、現在は前述した通り「産汚物」扱いな上に、病院での出産が一般化しているため、あまり知られていない。

しかし、出産が穢れのひとつとされたという記録とは少し毛色が異なるように思われる。
奈良県では、胞衣を子供の分身として解釈し、たくさんの人に踏まれることによって子供が丈夫に育つという、まじないのようなものとして解釈されていたようである。踏むことはふつう屈辱を与えるものという印象が一般的なように思われ、正直意外なことであった。

■胞衣信仰の衰退とその理由


しかし時代は下って19世紀、医療の発達とコレラの流行により、病原体の温床になるものとして扱われるようになり、「人に害をなすもの」「汚いもの」という扱いに変化、定着していく。
殯(もがり)や口噛み酒が姿を消していったのと、実はそう変わらないのかもしれない。公衆衛生の観点から危険視されたのである。

こうして胞衣に関する風習は問題があるものとなり、胞衣納めの儀式を失った人々のために「胞衣神社」も創建された。そのため、各地に「胞衣塚」などの胞衣に関する遺跡が多く残る。
民間信仰が先にあり、国家神道の影響力から、神社がなし崩しにお株を奪ったかたちとも言えそうである。

■(グロテスク注意)カニバルの線引きと自然界のなかの人類


さて、ここからかなりグロ注意な話になる。注意されたし。

そもそも胎盤は、哺乳類の特徴の一つ。
この胎盤だが、ヒトの祖先であるサルは、全ての雌ザルという訳ではないが、どうやら出産後に排出されたこの胞衣を、食べるようである。というより、多くの哺乳類が胞衣を食べることがある。必ずではないので、生態と呼べるものではないようではあるが、とにかく食べてしまうのである。

しかし、これは動物のみの話ではなく、人間も同じだったようである。本稿の末尾に記載した記事によると、人間の胎盤の味は「臭みのないレバーのような味」だそうで、食べると乳の出が良くなるという伝承が実在するように、滋養に良いものとしてヒトも食べていたようである。

しかし、肉を食べられない訳ではないが、生態や腸にもつ酵素などの関係で、ほぼ草食といえるサルが、同じサルの胞衣は食べるというのはどういうことなのだろうか。少なくとも味は悪くないようだが、もしかしたら現代人には知り得ない、哺乳類にとっての愛の一形態なのかもしれない。
また、ニワトリの卵や魚卵が美味しいことを多くの人間は知っている。そして、母乳で育つため、同類から分泌されたり形成されたものに、可食部があることを我々は知ってしまっているのである。全方位的に、否定のしようもない。

本稿のねらいは、「時代や国と地域が違えば、まるで違う常識がある」ということに立脚しているため、当然食べることに異論などない。むしろ、食べられるなら食べた方がよいと考えられる。
飽食の時代を迎えるまでの人類は、栄養学的には常に栄養失調で、戦の有無に関わらず短命であった。食べられるものなら何でも食べたというのは当然のことといえる。
また、飢えがあったから危険な食べ物とそうでない食べ物が判別できるよう、嗅覚など身体的知能が向上せず、知能を発達させたのだろう。そうした蓄積を借りて我々は日常生活を安全に過ごせているため、否定することなどおこがましいとすらいえる。

加えて、前述した通り、単純に美味しかったという可能性もまた無視して通ることができない。生命の誕生は、しばしば明るい未来を思わせるが、これはあくまで未来というものを信じられることが前提となる。だとしたら、生命の営みのなかに歓びを見出せるプリミティブな感覚、つまり味覚に感じる歓びに端を発していたとしても、何ら不思議はないように思われる。

とはいえ昔、専門書で実物の胞衣の写真を見かけた際に、とうぜん胞衣を食べ物として見るなどという考えに及ぶことなど到底なかったし、今ふたたび調べ直したあとも、まったく及びそうにない。
食人族も実在するので(2023年現在では、多くの国と地域で法律上は禁止されているが、ほんの数十年前には多くの地域に残存していたようである。)、この感覚は単に知識不足と経験不足によるものといえるのかもしれない。それに、記録の上では、ヒトはヒトの肉をあまり美味しいとは感じないようである。むしろ、生存のために社会性動物となった人類には、淘汰されて然るべき生態でだったように思われる。

かといって、キスなどによって発生する体液の交換は、免疫学的に、人に抵抗力を与えたと言われているようだが、それでも人と体液を交換することを"食事"とは呼ぶ現代人は極めて少ないだろうし、「これは胞衣と言って、これこれこういうもので、昔の人は食べてたらしいけど、あなたは食べられそう?」などと友人や家族に尋ねたら間違いなく心配されてしまいそうである。

それでも、胞衣を食する理由は、付けようと思えばつくのである。ヒトが胞衣を食べるとしたら、昔は多かった産中・産後の死亡を防ぐ目的で行われていたとしても不思議ではない。カマキリのメスが産卵時にオスを食べることがあるが、ヒトを含めた哺乳類は代わりに哺乳類のみがもつ胞衣を食べても不思議ではないのである。
しかし、たった一度の食事のため、身体的影響がどう出ているかなどわかろうはずもない。現代科学では検証し得ないか、検証してもマネタイズできないものであろうため、知られる機会が得られないだけかもしれないのである。

しかし、他の生物そのものや、その一部を食することは非常に否定しがたい。まず、ヒトを含めた哺乳類は、母乳で育つ。
そして、人類ははるか昔に「家畜」を発明した。家畜のミルクを求めたのである。このときに、一気に世界人口が激増したという研究結果がある。現在の人類は、こうした飢えへの挑戦や実践を含まずに説明できるものではないし、この発想はヒトの生態に起因していると考えられるのである。
ヒトは多様なものを食べてきた。大人になると最大で7割近くのヒトが乳糖を消化できずに腹を下すにも関わらずである。
また、そもそもどこからが自分と感じているだろうか。代謝物を自分の一部だと思いながらトイレに流しているだろうか。胞衣は、おそらく母乳と同じ部類のものとして扱われていたと考えられるのである。

だが、現代においても、ヒトは飢えれば何でも食べる。雪山での遭難や、かつての飢饉などでは、食人の事例が少なからずある。倫理・道徳に反すると感じても、昔はそうではなかったのかもしれない。そして、食べたからこそ今があるのかもしれないのである。いま感じている常識も、感覚的な切り分けも、普遍性があるとは言えないのだろう。

■現在の胞衣とまとめ



食の話から離れよう。近年では、へその緒はしばらく切らないでいると、健康になって運動能力も向上するという研究結果がある。3分間へその緒に含まれる鉄分の多い血液が成長を促すため、すぐには切除しなくなってきているのだという。
無意味なものなんてものは、本当にないのかもしれない。その多くがマネタイズできないだけで。だが、廃棄物から薬が作られてきたように、こうしたものが何かに活かせるものになるかもしれないというのが、科学的な視点だろう。

また人間が最初に纏うものが羊膜であり、それを含む胞衣であることに変わりはない。クローン体さえ元となった個体がこれに包まれて産まれてくるので、どこまで行ってもヒトを含めた哺乳類と無関係になることはないため、そこに文学的な意味を見出してもいいだろう。
また出産は、個人から見れば"行為"だが、自然観を広くもつ場合は、"現象"といえるだろう。
変な話、「着る毛布」みたいな話としても理解できる。とにかく、既存の概念は、何かをきっかけに、容易に変化する。

個人的には、本稿にまつわる情報を得るなかで獲得した最大の収穫は、日本人は少なくとも1人で産まれてくるという死生観ではなかったようだ、という認識である。
暮らしのなかで、自分のことさえよく分からないと感じることは珍しくない。そうした部分を認知するに至るためには、皆がそうした説明しがたい感覚を持っているのだという情報を共有しなければならなかったはずである。
疫病が蔓延するなか、身重の母は、初産のとき家で孤独に、狩りに行った夫を待つこともあっただろう。不安に思い、そして出産の歓びを見出したのだろう。
不安は、現代では生存戦略的な観点から語られることがあるが、多くの謎の危険があった時代にはこれを回避するために、独自の解釈をそれぞれに行ってきた。そのなかにある、この「1人じゃない」という認識は、どこか希望を感じ、勇気づけられる話であっただろう。

いずれにせよ、現代人にもまったく理解できないという話ではなく、あくまで「その地続きの先に、我々はいま生きている」と思わせてくれるものであった。

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■参考・引用
胎盤 - Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%83%8E%E7%9B%A4
国立情報学研究所 - 胞衣を祀る神社(PDF)
https://kumadai.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=23650&item_no=1&attribute_id=21&file_no=1
「信仰の対象」であった産後の胎盤が、条例によって「処理」される現代
https://wezz-y.com/archives/34135/2/amp
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https://www.j-cast.com/2016/08/21275462.htm

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