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ブッダが説くカルマ(業)の特徴とは❓ 『ブッダが説いた幸せな生き方』⑨

ブッダの教えを学びながら有意義な生き方を始めてみませんか?

前回は『ブッダが説いた幸せな生き方』を読みながら「八正道」「戒定慧」とは何なのかについて述べました。


今回はブッダが説くカルマ(業)の特徴についてです。

現代日本においては、「業(カルマ)」というと、「原因と結果の法則」もしくは「運命の法則」だと誤解されていることが多いように思います。

「自業自得」「業が深い」「因果応報」など、本来の意味を離れ、もしいま自分自身が不幸であるとしたら、そのワケは、自分自身の生まれや育ち、過去の悪い行い(前世の悪行)によるもの。

すなわち「業(カルマ)」に関しては、自分の人生は「運命」として最初から決められているという、何となくネガティブなイメージが先行しているように思うのです。

そして残念なことに、「いま不幸なのは過去に悪い行いをしたからだ」「過去に~したから今わたしは……になっている」という短絡的な因果関係に自分自身の思考がとらわれてしまうことは、どんな時代であれ、スピリチュアルビジネスや霊感商法詐欺に利用されてしまいます。

(もし「過去にああいうことをしたから、今わたしは苦しい思いをしている」と考えてしまうのならば、そこで問題になるのは、過去の行為それ自体というよりも、罪悪感や恥の気持ち、自己否定感へとつながる思考パターンなのです)。

しかし仏教由来ではなく、仏教成立以前からインドに存在していた「カルマ」という言葉は、そもそも「行為」「行い」を意味するのです。

また『ブッダが考えたこと』(リチャード・ゴンブリッチ 著 浅野孝雄 訳)によれば、「カルマという語自体が、その基本的な語源に遡るならば、在ることはなく為すこと、物ではなくプロセスを意味する」と言います。


それでは仏教のカルマの特徴とは何でしょうか? 『ブッダが説いた幸せな生き方』の著者である今枝由郎氏は、仏教のカルマについて、以下のように述べています。

 カルマ(仏教用語としては業)はブッダ以前からある汎インド的概念で、行為一般を指します。しかし仏教のカルマの特徴は、ただ行為そのものを指すだけはなく、その結果をも含めて完結する点です。カルマすなわちある行為は、いったんそれが行われると、目には見えない潜在的な力となって蓄積されます。そしてあるとき(それはいつかはわかりませんが)、何らかの形(どんな形かはわかりません)で、その善し悪しに従って楽あるいは苦という形で現れるということです。

今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』 147頁


 カルマのもう一つの特徴は、ある行為の結果は、その行為を行った本人にのみ降りかかるという徹底した自己責任性です。「彼がこうしたので、私はこうなった」といったように他人との関係は考慮されることがなく、「私はこうしたから、私はこうなった」「私は今こうすれば、私は将来はああなる」というように行為者本人だけに関わるものです。ですから「親の因果が子に報い」のように、ある人――それが親であっても――の行為の結果が、他人――それが子であっても――の上に降りかかるということはけっしてありません。

 これは相互間に振り込み不可能な銀行預金口座にたとえればわかりやすいでしょう。自分で稼いだお金は自分の口座に入金すれば預金は増え、逆に引き出す額が多ければ預金残高は減ります。そして一人ひとりの口座は、お互いに完全に独立しており、相互間にはいっさい関係がなく、ある人の口座から他の人の口座に振り込むということはけっしてできません。カルマの理論は、自らの行いの責任は自らが追うという徹底した自己責任論で、一人ひとりのうちで完結した自律的なものです。

今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』 148-149頁



また今枝氏は、ブッダの「弟子たちよ、私はチェータナー(意志)をカルマと呼ぶ。意志の指示により、人は身体、ことば、思考を介して行為する」ということばを挙げ、以下のように述べています。

 意志とは、善悪、あるいはそのどちらでもない行為の領域で、人に指示を与えるものです。従来はカルマは行い、行為と解釈されていました。ところがブッダは、彼自身の独創的なまったく新しい考えで、カルマは「意志」であると主張しました。そして、感覚とか識別といったことがらは意図的ではなく、結果を残さないので、そうしたものはカルマと見なさないと明言しています。たとえば茶碗を割ってしまったというのは意図的な行為ではないので、カルマとは見なされず、割ろうと思って意図的に割った行為のみがカルマです。すなわちブッダは、すべてのことば、行為、思考の、肯定的または否定的な倫理的価値は、その背後にあるチェータナー(意志)にあると主張したのです。

今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』 151頁


 ブッダは、カルマを行為そのものではなく、その動機であるチェータナー(意志)と見なしそれを倫理的な価値判断の究極の基準としました。このブッダのカルマ論は、人間の個性化の原理を提供するもので、個人の運命に対する責任が自分自身の意志にあることを鮮明にしました。

今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』 152頁


また、ブッダは意志の自発性を否定する見解も認めませんでした。こうしてブッダは、意志の自由を認めることで、自業自得論を確立しました。神などの外的要素の介入を排除し、個人自身が自らの行為、運命に責任を負うという考えは、人類史上ごく最近に至るまで、明確に主張されることも、受け入れられることもありませんでした。これはインドのみならず、世界の文明史における偉大な一歩です。残念ながらこの理論は、現在の状況を過去のカルマ(業)に遡って「後ろ向きに」解釈されることが多く、日本語で「これは宿業だ」と言うように、諦観的な響きを持つ否定的・消極的な宿命論と受け止められています。しかし本来のブッダのカルマの教えはその対極で、「いかに行動すべきか」という問いに対して、将来の自分の境遇は今の自分のカルマにかかっていると認識し、建設的に、「前向きに」理解されるべきもので、倫理的行為の推奨なのです。

今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』 153頁



ブッダがカルマは「意志」であると主張し、「すべてのことば、行為、思考の、肯定的または否定的な倫理的価値は、その背後にあるチェータナー(意志)にあると主張した」という点が、独特なのです。

またブッダは「カルマを行為そのものではなく、その動機であるチェータナー(意志)と見なしそれを倫理的な価値判断の究極の基準」としたのであり、ブッダのカルマ論は、「個人の運命に対する責任が自分自身の意志にあることを鮮明」にしたのです。

つまりブッダのカルマ論を考えるうえで重要なのは、「行為そのもの」というよりも、「自分自身の意志」なのです。

(このあたりのことは、そもそも「自由意志」があるかどうかという議論に結び付きそうですが、私自身がブッダを信頼できる理由のひとつは、脳の神経科学の立場から自由意志はないとするのではなく、「個人の運命に対する責任が自分自身の意志にある」としている点なのです)。


また、記事の冒頭で、「カルマ」というと、何となくネガティブなイメージがつきまとうと述べましたが、今枝氏が述べるように、「本来のブッダのカルマの教えはその対極で、「いかに行動すべきか」という問いに対して、将来の自分の境遇は今の自分のカルマにかかっていると認識し、建設的に、「前向きに」理解されるべきもので、倫理的行為の推奨なのです」。

近頃、「利他」という言葉が注目されていますが、良かれと思ってやった行いが常に善い結果に結びつくとは限りません。

そもそも「善い」「悪い」が主観的な判断である限り、自分自身で「善い行い」をしているつもりでも、現実社会においては、自分が期待した通りの結果がもたらされないことのほうが圧倒的に多いのです。

たとえば、自分では親切のつもりでやっていることが、相手や周りの人たちにとってはありがた迷惑であるというケースは日常生活のなかではよくあることです。

他人の物を盗んだり暴力によって人を傷つけたりするといった悪い行いをしたとしても、すぐに報いを受けたり、そのことが原因で災難がふりかかったりするとは限りません。


そのため、日頃の行為が、未来でどのような結果を生み出すのかは予測できないのです。ところが、お釈迦様のいう八正道を中心とした倫理的行為によって、「運命」を変えることは可能なのです(ただし100パーセント保証されているというわけではなく、運命を変えられるかどうかは、自分でブッダの教えを信頼し、確認しながら試してみるしかありません)。

そしてそのためには、天気のようにいつも気まぐれな神様の力に頼ることよりも、倫理につながる自分自身の「意志」というもののほうが、ブッダの教えにおいては大切なのです。そして、意志を認めているからこそ人は変わることが出来るのです。ここが「カルマ」についてのブッダの教えを学ぶうえでのポイントです。


……次回へと続きます。

お忙しい中ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます😊



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