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心こそが全ての行動の出発点! 『ブッダが説いた幸せな生き方』⑩
ブッダの教えを学びながら幸せな生き方を始めてみませんか?
前回は『ブッダが説いた幸せな生き方』を読みながらブッダが説くカルマ(業)の特徴について述べました。
そのなかでブッダのカルマ論を考えるうえで重要なのは「行為そのもの」というよりも「自分自身の意志」なのであると述べましたが、『ブッダが説いた幸せな生き方』の著者である今枝由郎氏は、ブッダの、
「弟子たちよ、私はチェータナー(意志)をカルマと呼ぶ。意志の指示により、人は身体、ことば、思考を介して行為する」
ということばを取り上げ、以下のように述べています。
意志は日本語では心と置き替えてもよく、すべての行為の原動力は心にあると言っていいでしょう。ですから、自分の心を律することにより、自分の行動を律する必要があります。これはあくまで自分自身の行為を律することにより、自分の行動を律する必要があります。これはあくまで自分自身で自分の行為を律することで、神の命令に従うといった他律的なことではけっしてありません。
ブッダは心こそが、人間のすべての行動の出発点であり、そのすべてを規制するものであることを認識して、仏典のあちこちで心に言及しています。
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そして、『ダンマパダ』の「心はすべてのものごとに先立ち、すべてをつくり出し、すべてを左右する」から始まる一節を引用しているのですが、ここで興味深いのは、一九〇二年にイギリスで出版され(邦訳は二〇〇三年)、ロングセラーになっているジェームズ・アレンの『「原因」と「結果」の法則』の冒頭は、実は『ダンマパダ』の自由訳にすぎず、しかも出典を記していないことを、今枝氏が指摘している点です。
しかしだからといって出典を記していないジェームズ・アレン氏のことを責めているのではなく、
読者はそこで述べられている見解を、ジェームズ・アレンのものとして受け止め、理解し、高く評価してきました。しかし、実はそれはブッダの教えだったのです。ということは、今までの数知れない読者は、知らず知らずのうちに、間接的にブッダの教えを理解し、高く評価してきたわけです。
と述べています。さらに、
ブッダによれば、本質的なのは、教え、見解なのですから、ブッダの教えがジェームズ・アレンの教えとして受け止められても何ら問題はないわけです。ラーフラ師は、「薬が良ければ、病いは治る。薬を調合した人が誰であるか、薬がどこからもたらされたかを知る必要はないのである」と述べていますが、まさにそのとおりです。
としています。
つまり、ブッダの教えの本質を理解できたことによって、副作用なく薬が効いたみたいに本人の心に正しく作用したのであれば、たとえ間接的であっても構わないというのです。
このことは、ブッダの教えを学ぶために、お釈迦さまの言葉が記された『ダンマパダ』や『スッタニパータ』をいきなり手に取るのは少しハードルが高いという場合、今枝由郎氏によって書かれた『ブッダが説いた幸せな生き方』をまず読んでみることによって、ブッダの教えの本質が正しく伝わるのであれば、何ら問題はないということです。
より具体的にいえば、大切なのは、ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)自身ではなく、目覚めた人であるブッダの教えの本質がどこを指し示しているのか、正しい道を示す、その方向に意識を向けることなのです。
瞑想法「シャマタ」と「ヴィパッサナー」の違いとは?
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そして、「心はすべてのものごとに先立ち、すべてをつくり出し、すべてを左右する」、「すべての行為の原動力」がある「心」とは、制御しがたい、落ち着きのない猿のようなものですから、ブッダが説いたのは「心を制御する必要性」なのです。
そこで瞑想修行を行う必要があるのですが、ブッダが出家直後に二人の師のもとで行った瞑想は、「日常生活から逃避しており、定められた姿勢で心を集中し、「思考の停止」「無念無想」といったことが目的」であり、「一時的な平安は得られても、それが終われば再び日常生活の只中に戻ってしまうもので、ブッダが求めていた平安」ではなかったといいます。
そして当時の瞑想修行を諦めたブッダは、以前からインドで行われていた、「シャマタ」というインドの伝統的な修行方法を取り入れたうえで、「ヴィパッサナー」とよばれる、「自ら考案した瞑想法」を加えて、二種類としたというのです。
今枝氏によれば、「シャマタ」(漢訳では「止」、パーリ語では「サマタ」)とは、「心の作用を滅却し尽くす「思考停止型瞑想」であり、一方「ヴィパッサナー」(漢訳では「観」)とは、「ものごとのありのままの姿を徹底的に考察し、透視する「洞察徹底型瞑想」であると言います。
しかし「シャマタ」に関しては、
これは、自分の周りに起きている現象やものごとに心を動かされることなく、心を一つの対象に落ち着かせることで、これが深まるとサマーディ(漢訳では三昧と音写。集中力)が生まれ、そこからジャーナ(禅)という精神的に高度な境地に至るとされます。
としつつも、
しかしこれは仏教の究極の目的であるニルヴァーナには結びつきません。ブッダはこうした瞑想を「この世における幸せな状態」と見なしましたが、それ以上のものではありません。なぜならこうした境地は永続するものではなく、一定の時間が過ぎると元に戻ってしまうものだからです。
としています。
さらにブッダの「それは無常で、移ろうものであり、ドゥッカである」という言葉を挙げ、「要するにサマーディ(三昧)やジャーナ(禅)といったシャマタ(止)は、ヴィパッサナーに入る前の準備的瞑想と位置付けられるものです」と今枝氏は説明しています。
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もうひとつの「ヴィパッサナー」に関しては、「ブッダが真に推奨したもので、瞑想というよりは、透視、洞察と理解した方がいいでしょう」としています。また、
これは、シャマタと違って、ある特定の姿勢を保って行う必要はなく、日常生活の只中で実践するものです。そして、これこそが仏教独自の本質的な瞑想法で、究極の真理、心の完全な解放に連なるものです。
と述べています。
ちなみに「シャマタ」も「ヴィパッサナー」も、普段から仏教や瞑想に関心がなければ、日々の生活のなかで聞き慣れない言葉かもしれませんが、日本人にとって「シャマタ」と関りが深いのはお寺で行われる「座禅」であり、「ヴィパッサナー」と関りが深いのは、近年、宗教色があまりない瞑想法として多くの人に知られるようになった「マインドフルネス」です。
……次回へと続きます。
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