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映画「365日のシンプルライフ」を観て、哲学的な映画も見ておくべきと思った話

どうも、しおです。

最近映画をひたすら観ることを生きがいにしている者です。

さて、今回観たのは「365日のシンプルライフ」。

映画を観ようと思った経緯は、前回の記事『「セブンティーン・アゲイン」という映画が予想以上におもしろかった。という話』でも記した通り、Netflix契約しようか迷っていた所、どうやら月5本以上みると元が取れるらしいと知り、契約する前に5本も見れるかどうか実践してみようと思ったからだ。

映画はもともと好きなので1日に2~3本みることは苦ではないが、果たしてそれが継続するのか、ということが問題。

問題というか、月に5本以上視聴できなければNetflixは契約しない(かも)という話なだけなので、特に気にもしていないけど。

まあ、そんなこんなで2本目の映画レビューをしていきたい。

なお、前回同様ここには映画のあらすじは記すものの、それ以外のネタバレを含む表現は極力控えるので安心してほしい。ただネタバレというほどではないものの、多少あらすじよりも話すことがあるのでその際は注意書きをあらかじめ書き記しておく。

「365日のシンプルライフ」の簡単なあらすじ

今回観たのは「365日のシンプルライフ」。原題「Tavarataivas」

観たのは字幕版(ぼくは字幕でも吹き替えでもどっちでも可の人。

あらすじ以下。某サイトからの引用↓

ヘルシンキに暮らす26歳のペトリは、恋人にフラれたことをきっかけに、モノが溢れ返った自分の部屋にウンザリする。ここには自分の幸せがないと感じたペトリは、自分の持ちモノ全てをリセットする”実験”を決意。そのルールは4つ。

ルール1:自分の持ちモノ全てを倉庫に預ける
ルール2:1日に1個だけ倉庫から持って来る
ルール3:1年間、続ける
ルール4:1年間、何も買わない

この映画はフィンランドのドキュメンタリー映画だ。

ドキュメンタリーとは思えないほど、ペトリの人生がおもしろい。

だが映画として観るには、人を選ぶかもしれない

というのも、ドキュメンタリー映画なので、特に変調や盛り上がりどころがあるわけではない
淡々と進んでいきながらも、ペトリの考え方の変化や、自分がその映画で発見できることはなにか、といった哲学的な見方ができる人は楽しめると思う。

...なんていうと、さもぼく自身が「哲学的な見方」ができるようなやつに見えてしまうかもしれないので言っておくと、ぼくは「哲学的な見方」ができる高尚な人ではない

でも、見続けていると考え方の発見があることは確かだ。

そもそもなぜ観ようとしたのか

そもそもなぜぼくが「365日のシンプルライフ」を観ようと思ったのか

月に映画を5本見れるか?という実験もあったが、それよりも単純にあらすじだけで面白そうじゃないか

昨今ミニマリストやら、断捨離やら言われているが、実際に実行している人は果たしてそこにどんな意味を見出しているのか? 気にはならないだろうか。

ぼくも割とミニマリストを意識はするものの、できている気はあまりしない。

家にフィギュアとかあるし、ぬいぐるみとかあるし...。
BUMP OF CHICKENが好きだから、グッズもたくさん持っている。

一見、他人からしたら無駄に見えるそれらも、ぼくからしてみれば捨てられないものだったりする。

一方で価値観も変化するもので、ぼくはもともと服とかが好きで、たくさんもっていたけど、社会人になってからは服を選ぶ時間がロスだと考えるようになってめちゃくちゃ捨てた。

あとはなんでもながーーーく使用している。

例えばリュックだが、かれこれ10年くらい同じものをしようしている気がする。(実際はたぶん8年くらいだから、多少盛っている......笑

もはや黒いパンツと、Tシャツと、羽織るものさえあれば良いや、くらいの服しかない。

だけどぼくよりも服を持っていない・興味がない人からしたら、持っている数は多いと思う。やっぱりぼくにも、そうは言っても捨てにくい服だったり、お気に入りの靴だったりもあるからだ。

要は大事なものは「感情」が大きく関わっていると思う。

よく「お金」関連の本には「持ち家は無駄!」「車はいらない!」と言われるが、どれも『感情論は抜きにして、金銭的によくないよね』という書き方になっている。

だから「マイホームを持つことが夢だったんだ!」「かっこいい車こそ至高だ!」と考える人には「それで良いよー」と言っている。

普段使っているものにもそれは言えると思う。

だって服が好きじゃない、着るためだけの手段だと思っている人からしたら、おしゃれにつかうお金なんて無駄だ。

でもおしゃれもファッションも生きがいとしている人からしたら、いくらかけても欲しい服・靴・バッグがあったりするわけで。

つまり、ミニマリストや断捨離好きな人は、モノに対しての価値観をどのようにおいているのか、気になるのだ。

お気に入りのものはないのか?
それとも感情論を抜きにして捨てているのか?
本当に自分が欲している物の線引きはどこなのか?

こんなことを普段から考えていたからこそ、こんな極端なこと(↓)をする「365日のシンプルライフ」という映画が気になったのだ。

ルール1:自分の持ちモノ全てを倉庫に預ける。
ルール2:1日に1個だけ倉庫から持って来る。
ルール3:1年間、続ける。
ルール4:1年間、何も買わない。

「365日のシンプルライフ」を見た感想

※以下ではネタバレというほどではないものの、多少あらすじ以上の話が展開されるので、注意です。

極端なルールで出発する所為か、極端な始まり方をする。

主人公のペトリは全部「自分のものを倉庫に預ける」ので、マジで全裸から始まる

極端すぎておもしろい

でもドキュメンタリーなせいか、シュールな絵面ではある物の、笑えるというより、マジかよ...という気持ちで見ることになる。ぼくはちょっと笑ったが。

フィンランドという国柄だからか、なんか寒そうだし、実際絶対寒い。

「ひいいいい、寒いいい」という気持ちでも見れる。

おもしろかったのが、家電製品を使わずにどうやって食品などを管理するのか、という部分。

ネタバレになるので言わないが、単純なアイデアなのにもかかわらず「なるほど!」と頷けつつも、やはりちょっと笑える。シュールというか、なんだか悪友とニッチなネタで笑っているような、そんな気分で観られる。

映画が進むと、モノをたくさん持っていたペトリにもだんだんと変化が現れる。

ちょっとネタバレにはなるが、祖母の家にある物を譲り受けるシーンがある

その時、パトリは「貰えないよ...」とこぼす。

これは決して「断捨離」的な意味合いで発言したわけではない

モノとしての価値だけではなく、モノに込められた想いや、自分との祖母との思い出を考えた結果だと思う。シンプルライフで「生活に本当に必要なもの」と「感情的に必要なもの」を判断できるようになったからこその発言だと、ぼくは思った。

祖母のものを、自分のものにするだけの感情があるのか。

そういった意味が込められた「貰えないよ...」だったんじゃないか。

結果、1つだけモノを受け取るのだが、そのモノは「祖母」と「パトリ」の大切なものだったに違いない。

総じて「発見のあるおもしろさ」

「365日のシンプルライフ」では、このような発見が随所にみられる

発見というのは、パトリ自身の発見もあるが、ぼくのような視聴者自身の気づきや新しい自分の哲学を生み出す発見、でもある。

また改めて大切なことに気づかされる。

モノの価値や、込められた想いというものは、なにものにも代えがたいものではあるものの、絶対ではない。

生活に変化が加われば、おのずと感情・価値観も変わっていく。

そうした「発見」があることが、この映画のおもしろいところだと思う。

観て、よかった。モノの価値、自分の生活スタイルを見直すきっかけにしたい。また、モノが増えすぎたときは、もう一度見返してみたい。また新しい発見があるかもしれない。

―おわり―

執筆現在(2021年3月)Amazonプライムで無料で観ることができるのでぜひ。


コーヒー代を投げてくれると、大変喜ぶ習性があります。