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だからキミと明日も、明後日も

小学校を卒業して中学校に入学するまでのつかの間の休みのある日、僕宛に小さな箱が届いた。

ご入学おめでとうございます、という簡素な手紙と一緒に届けられたそれを開けてみるとドッジボールほどの大きさの卵がひとつ、たくさんの緩和剤と一緒に入れられていた。

「柳田 柚希様。この度はご入学おめでとうございます。ご入学に際しましてナビゲーションAIの卵を贈らせていただきます。ご入学されるまでに孵化させていただきますよう、よろしくお願いいたします」

恐る恐る卵に触れてみる。毎朝目玉焼きにしている卵のようにザラザラしていて、ひんやりと冷たい。落とさないように両手で抱えるように持ち上げてみると中身がわずかにどろりと動いた気がして、慌てて胸に抱えなおした。

重い。いのちの重さだ。

毎朝卵を割るときは何とも思わないのに、今この手に抱えている何かの卵はずっしりと重くて、絶対に落としてはいけないんだと強く思った。

それから毎日僕は卵に話しかけた。卵が入っていた箱には手紙のほかに取扱説明書のようなものが一枚入っていて、卵を温め続ける必要はないこと、毎日話しかけること、誤って割ってしまった場合の連絡先などが小さい文字で事細かに書いてあった。普段ならば飛ばし読みをしてしまうようなそれらの文章を僕はかじりつくように何度も何度も読み返しては、卵に話しかけていた。

「今日はね、中学校の制服が届いたんだ。動きにくいし重いし肩が痛かったなあ」

「あのね、いっつも遊んでるりく君も一緒の中学に通うんだ。一緒の部活はいろうぜって約束したんだ」

「生まれたらどんな姿なのかな。学校に連れて行っていいらしいから、肩に乗せれるくらい小さかったらいいなあ」

毎日その日あった出来事や、自分の名前、楽しかったことを返事もないのに話し続けた。心なしか話しかけているときは卵がじんわり暖かくなっているような気がして、それがなんだかうれしかった。

入学式を3日後に控えた頃、唐突に卵にヒビが入った。

「ゆずー! 卵、そろそろ割れそうよ!」

母さんの声に驚いて、玄関にいた僕は履いていた靴を蹴飛ばしながら脱いで急いで卵が置いてある部屋に走った。いつもは靴をきちんと揃えなさいとうるさい母さんでさえも、何も言わずに卵を見つめていた。

何分経っただろうか。本当は何十秒ぐらいしか経っていなかったかもしれない。けれどとっても長く感じる時間をかけて、ようやく卵が孵った。

それはとてもぷるぷるしていた。ゼリーのように動くたびにぷるぷると揺れて、透き通ったそれは大きな目を開けて一番最初に僕を見た。

「…生まれた」

思わず伸ばした手に、手も足も持ってないそれは懸命におたまじゃくしのような体を動かして応えるようにすり寄ってきた。ひんやりと冷たい。生まれたばかりの小さないのち。落とさないようにそっと持ち上げると尾ひれに「製造番号91番」の文字が見えた。

「ゆず、名前は何にするのか決めた?」

すり寄ってくるそれを落とさないように必死で腕を動かしていた僕に母さんの優しい声が降ってくる。

「91番だから、キューイにしようと思う」

よろしくね、と聞こえているのかも理解できているのかもわからないそれに話しかければ、それは腕を伝って僕の肩まで移動して頬にすり寄ってきた。

キューイが生まれてからはどこへ行くにも一緒だった。キューイはボクの肩が気に入ったのかそこから離れようとしなかったし、僕の話を聞いてくれて僕だけになついてくれるキューイは僕のお気に入りだった。最初に感じた水のような冷たさはいつしか感じなくなっていて、ほんのりと温かいキューイは血の通った生き物のようだった。

緊張しながらもいつもの肩の重みに安心しながら初めて登校した中学校。小学校からの持ち上がりで知っている顔もたくさんいたけれど、半分ぐらいは知らない顔だ。その誰もにキューイのような生き物が寄り添っていたが、どれを見てもキューイが一番かっこよくて素晴らしいもののように感じた。

入学式が終わり、割り振られた教室で自分の席に座っていると見知った顔の友達が話しかけてきた。

「ひさしぶりだな、ゆず。あ、それお前のナビ?」

「ひさしぶり。そうだよ、キューイって名前にしたんだ。かっこいいだろ」

「へー。でもなんか、きもくね? ぷるぷるしてて魚みてぇ。俺のは犬っぽいこいつ。俺ずっと犬ほしかったから、孵ったとき超嬉しかったわ」

鐘が鳴って会話はそこでお開きになったが、さっきの言葉が頭から離れなかった。周囲を見れば猫のようなそれや犬のようなそれ。いろんな形がいる中でさっきまで確かに一番かっこいいと思っていたキューイが一番劣っている気持ちの悪いものに思えて仕方がなかった。

「みんなの家に届いた卵はナビゲーションAI、通称ナビと言って、名前の通りみんなの学校生活や日常生活をナビゲートしてくれます。友達や先生、家族にも相談しにくいことや悩み、不安をナビはきちんと寄り添って聞いてくれます。一人で抱え込まないで、なにかあったらナビに話しかけてくださいね」

先生の言葉が耳を通って抜けていく。そういえば隣の子がナビに話しかけたとき、確かにそれは返事をしていた。言葉じゃなかったけど高い猫のような鳴き声で確かに「にゃーん」と鳴いていた。だけどキューイはどうだろう。キューイは鳴かない。キューイは動くのも遅い。猫っぽくないし、犬っぽくもない。ただ肩に乗って頬にすり寄ってくるだけの、生暖かい何か。

そう考えた途端、僕はキューイが気持ち悪くて仕方がなくなってしまった。

それから僕はキューイを肩に乗せなくなった。必ず一緒に登校しなくてはいけなかったから鞄に押し込んで、授業の時は机の端に置いておいた。キューイの話をしたくなくてナビの話になったらなんとか理由をつけて教室を出たし、入学式のあの日からキューイに話しかけなくなった。心なんて最初からなかったように、キューイは僕をじっと見つめるだけだった。

夏になってプールの授業が始まった。太陽の熱に温められたプールの水は生暖かくてどこかキューイを思い出させた。そんな考えを振り切るようにがむしゃらに泳いだ。人のまばらな場所で深く潜って、水の中から空を見上げるとゆらゆら揺れる水面が懐かしく感じた。痛いくらいの太陽の光が淡くなり、すべての境界線がふにゃふにゃになる。

ああ、キューイだ。

キューイの透明の体から見る世界にそっくりだった。毎日話しかけていたあの頃は、よくキューイを掌に載せてキューイの体越しに景色を見るのが楽しくて好きだった。すごいねって笑えばキューイが嬉しそうに体を揺らすから、キューイはいつだって違う景色を僕に見せてくれた。

プールの後の授業は退屈で、日光を浴び続けた体はひどく重くてだるい。隣の席の子も、一番前の席の子もうとうとと眠たそうに舟をこいでいる。

教科書を読む先生の声と時計の針が進む音。開けられた窓から吹く風に揺れるカーテンの音。もう寝てしまおうか、と腕を枕にして寝る体勢になったときキューイと目が合った。

じっと見つめている。さっきまで入っていたプールの水のようにキューイの呼吸に合わせて水面が揺れていた。

そっか、キューイも息してるんだ。

あたりまえのことが今更胸にストンと落ちてきた。じっと見つめてくるキューイに触れたくてそっと手を伸ばすと、何の迷いもなくあの頃のようにキューイが手にすり寄ってきた。

久しぶりに触れたキューイはひんやりとして気持ちよかった。

「柳田、ちょっといいか」

あのプールの日からまただんだんとキューイに話しかけるようになっていた。その日あったこと、難しいと思った授業のこと。キューイに手を伸ばせばいつだって腕を伝って肩に乗ってくる。その少しの重さに、また安心を覚えるようになっていた。

先生に呼ばれて入った職員室はがやがやと人の声が入り乱れて少しうるさい。キューイに触れながら周りを見渡していると、柳田、とまた先生が僕を呼んだ。

「それがお前のナビか? 名前とかあるのか?」

「あ、はい。製造番号が91番らしいのでキューイって呼んでます」

「お前を呼んだのは、その、なんだ。お前のナビはほかの生徒のナビと違って音声出力ができないだろう? そうすると何かと不便だろうってことで、正常なナビと交換したらどうかっていう打診をするために呼んだんだ」

うるさいはずの職員室の中で先生の声だけがはっきりと聞こえた。耳を通して聞こえた言葉たちを頭が理解した時に胸がズキンと痛んだ。

「いやです」

口から言葉が零れ落ちた。

「先生、僕、いやです。僕のナビはキューイがいいです」

体の中から生まれた言葉を口から出せば重たかった胸が途端に軽くなるような解放感に包まれた。言葉にして初めて自覚した。僕のナビはキューイしかいない。

涙も出ないし、叫びだしたいほどの激情でもない。ただ他のナビは欲しくないということを分かってほしくて僕はいやです、という言葉をただ繰り返していた。

「…ナビゲーションAIは思春期の子供の心身のサポートのために導入されたロボットで、持ち主である子供のための人工物だ。どのように扱うのかはその子の勝手だし、その存在をどのように捉えるのかは一人ひとり違ってくる。ただ、絶対の味方として持ち主のそばを離れないようにとだけプログラミングされているんだ」

キューイはほかのナビと違って鳴かないし、動きもおぼつかない。じっと見つめてくる大きな目は何を考えているのかわからないし、気持ち悪いと言われたとき僕は納得してしまった。無碍に扱ったしそばに置かない時もあった。

だけど、そんな僕のそばをナビは離れなかった。それがプログラムされた結果でも僕はそれが確かに嬉しかったんだ。

「やっぱり、僕はキューイがいいです」

肩から降ろして抱きしめたキューイは僕の体温を吸って、少し温かかった。

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