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短編『終末時計は過ぎていた』

 もう終末時計はてっぺんを過ぎているのです、と彼は言った。

 地球科学、人文科学、社会科学、統計学、植物学、細胞生物学、遺伝子学、原子力工学、精密工学、熱力学、航空宇宙工学、ロボット工学、天文学、量子力学、素粒子物理学、数理物理学、宇宙物理学、エトセトラエトセトラ……どんな自然科学的見地から見ても、とっくにてっぺんは過ぎているはずなのです。

 彼は、額からジュワっとにじみ出ている汗をハンカチで拭いながら、顔に似合わない高い声で繰り返した。
 彼女は、目の前の彼に時間が欲しいと言われたときから、嫌な予感がしていた。正確には、嫌な予感しかしなかった。だが、まさか世界終末時計が過ぎていたなんて、そんなことは想定外だった。うっかりと言うにもお粗末な内容で、とにかくこれは一回落ち着こうと、彼女は幼少期からお気に入りのアールグレイティーを口に運んだ。豊潤なベルガモットの香りが鼻腔から大脳辺縁系や視床下部に運ばれ、彼女の荒ぶる自律神経に作用を与える。
 彼は相変わらずの汗をふきふきし、少しずれた丸眼鏡を指で持ち上げると、呼吸の乱れを整えるために、あえて大げさに深呼吸をした。空気を一変させる男だわね、と彼女は冷ややかな目で機械仕掛けのような彼の動作を一瞥し、カップをソーサーに戻した。
「状況がよく分からないから、初めからもう一度話して」
彼女は、肩を縮めて汗を拭き続ける彼に、後ろのイスに座るように手を差し出した。
 彼はふらふらとしたおぼつかない足取りでイスに座ると、使い古した植物由来のフェイクレザーのカバンの中からおもむろに水筒を取り出し、何か液体を飲んだ。そういえば彼にお茶を出していない、と彼女は思ったが、彼は気にしていないようだった。
「いつものように、今年の終末時計の時間を合わせようと各分野の代表メンバーで集まったのです。で、いつものようにそれぞれのデータを検証し、少しでも定性的で情緒的な意見は徹底的に論破し、論理的かつ合理的に議論を進めて……その結果、1秒過ぎていることに全員が気づいてしまったのです。1秒……」彼はハンカチの下から彼女の顔をのぞき見し、自分の報告がどんな結果を招くのか恐る恐るうかがった。彼女は古代ギリシャ彫刻のように――もちろん服は着ていたが――一瞬の表情が切り取られたままピクリとも動かなかった。
 彼女は、一連の流れを把握すると、彼にデータを置いて帰るように指示した。彼はカバンに水筒を戻し、水晶のような小さな固体を彼女のデスクにうやうやしく置いた。彼の芋虫のような指には似つかわしくない、光沢のあるよく磨かれた爪が目につき、彼女の眉がわずかに痙攣した。
 
 男が出ていくと、彼女はカーテン越しに窓の外を眺めた。先ほどまで同じ部屋にいた男の後頭部が、初夏の日の光に照らされてじんわりと汗を湛えているのが、遠目からでも判別できた。良く晴れた日の午後3時26分52秒、彼女の記憶は遠い過去へと飛んで行った。


 10代後半だった彼女とその青年が出会ったのは、夏の海辺の避暑地だった。彼女の親と青年の親が仕事関係で知り合い、夏の間、青年の親が所有する別荘のひとつを貸してもらうことになったのだった。彼女は両親と妹と一緒に、その別荘へと向かった。
 その避暑地には、各界の著名人の別荘が集まっており、頻繁にパーティが催されていた。人々は社交によって人間としての次の高みへとステップアップすると信じており、マスクの下の笑みが目よりも真実を語ると、さらに信じ込んでいた。
 彼女もまた、両親に連れられて数日ごとにパーティへと顔を出した。たいていは同年代の若者たちが彼女と同じように親に連れられてきており、将来への足掛かりに食らいつこうと積極性を発揮するか、10代特有の「大人は分かってくれない」病を蔓延しようと画策するかのどちらかが大半だった。だが、彼女はどちらの勢力にも興味が持てず、誰にでも曖昧に軽く挨拶をする程度で、特定の誰かと親密になることはなかった。
 その日もまた、彼女はどちらの仲間になるでもなく、中途半端にぶらぶらと、会場になっている別荘の屋内とその周辺を歩きまわっていた。
 彼女は、妹のことを考えていた。彼女の妹はまだ10代前半だったため、少し遅い時間から始まった今回のパーティには参加させてもらえずしつこく文句を言っていたが、彼女にはそれが理解できなかったのだ。なぜこんなつまらない集まりにあれほど行きたがっていたのだろうか。妹は彼女と比較すれば社交的で、数人の同年代の子たちとかなり親しくなっていた。が、今回のパーティは妹と同様、10代前半の子たちは誰も参加しないことは(親も再三言っていた)分かっていたはずなのだ。
 どれだけ考えても理由は見つからなかった――演繹法的にも帰納法的にも弁証法的にも、あらゆる角度から考えてみたが、彼女自身を納得させる答えは出なかった。
そんな風に妹のことを考えながら、彼女はパーティ会場の前方に広がる砂浜をひとり、歩いていた。生あたたかい夜風が彼女のサマードレスを膨らませ、彼女は思わず立ち止まった。その時、少し離れた場所に座っている、ある一人の青年のシルエットが目についた。
 普段は知らない人間に近づくなんて絶対にしないが、なぜか彼女の足はその青年に向かって躊躇なく進んでいった。まるで彼女の意志とは関係のない、自動操縦のロボットの足のように。
 その青年に近づくにつれて、彼女はマスクのない青年の顔に見覚えがあることに気づいた。そうだ、写真で一度見たことのある顔。別荘を貸してくれたご夫妻が、息子さんが写っている家族写真を見せてくれたことがある。あの時の、少しはにかんだ、くしゃくしゃ髪の痩せた青年。だが、たしか息子さんは外国の大学に行っていて忙しいから、今年はここには来ないとかなんとか……。
「やあ、こんばんは」ほぼ真横に立っている彼女に気づき、青年が声をかけた。「君も座れば? 大丈夫、十分に乾いているから」
 青年は、砂浜に無造作に置かれた大きな丸太の上に腰を下ろしていた。遠くでたびたび人々の笑い声が聞こえたが、静かな波の音のほうが青年の声の波長に呼応していた。
 彼女は小さく「こんばんは」と応えると、青年の横に腰を下ろした。
「ほら、見てごらんよ。夏の大三角だよ」そう言うと、青年は目の前の空を指さした。
 夏の大三角――恒星の集まりである銀河を挟み、こと座のα星ベガ、わし座のα星アルタイル、はくちょう座のα星デネブを結んだ三角形。東の空に現れる、ということはこちらが東なのか――と彼女は思った。
「あれがベガ、それであの明るい星がアルタイル、それであっちの星がデネブ。これらを結べば、ほら、三角形になる。ここからじっと見ていると、あの中心点に吸い込まれそうだ」
 青年は星々を指さしながら、大きく三角形を宙に描いた。彼女は何も言わず、ただ頷いた。こんなに多くの星々が自分たちを覆っていることにどうしてこれまで気づかなかったのか、彼女はその事実に我ながら驚いていたのだ。
 2人は、星を眺めながらポツポツと会話をした。青年はある国の大学で地殻に関する勉強をしている、とのことだった。天文系じゃないんだ、と口から出そうになったが、安直な発想だと思われたくなくて、彼女はその言葉を飲み込んだ。
 それから彼女もまた、自身の将来の希望や勉強したいことについて話をした。知り合ったばかりの人にこんな私的な部分まで語るなんて……、という脳内のもう一人の彼女の非難めいたささやき声がかき消えるほど、内面に踏み込んだ話まで気負いなくしていた。
 つい数時間前まで両親と一緒に御大層なパーティ会場にいたとはとても信じられない――この瞬間のために、この夏の時の流れに迷い込んだのではないかと彼女には思えた。
 その時、彼女のスマートフォンが無言の抗議を表した。もういい加減にしろよとでも言うように、不機嫌に身体を揺らせて、星に負けじと光を発しながら。
 彼女は青年に一言断ってから画面を確認した。思った通り、母親からの「どこにいるの。そろそろ帰るから戻ってきて」のメッセージだった。確かに会場を離れてから、それなりの時間が経っていた。もう行かないと……。
「僕はもう少しここにいるよ」青年は手を差し出した。さよならの握手。彼女は一瞬ひるんだ後で彼の手を握り、その場を離れた。振り返ると、青年はまるでこれまでずっとそうだったかのように、ひとりで夜空を眺めていた。隣には一人分の空間が空いているようにも元々誰もいなかったようにも見えて、彼女は自分の残像を少し哀れに感じた。
 そういえばお互い、名前を言わなかった。彼は私が別荘を借りている両親の知り合いの娘だと知っていたのだろうか。
そんなことを考えながら、彼女は帰り支度をしている適度な距離感を保ったお客の群のなかへと入っていった。

 翌日、彼女は寝泊りしている別荘の各部屋を、引き出しの中を含め、あらためて探索した。どこかにあの青年の写真がないか期待して(昨夜のうちにネット上の情報は探したが、よくある学校の集合写真のようなものが数枚出てきただけだった)。
 だが、おそらく随分前から貸別荘にしているようで、写真どころか所有者一家のまったくの私物らしきものは一切見当たらなかった。別荘に置かれているものは、ペンでもベッドでもなんでもご自由にお使いください、なのだ。
 すべての部屋を隅々までチェックし、どこにも求めているような情報が隠されていないことを確認し終わった頃には、彼女の額と背中には汗がじんわりと浮き上がっていた。喉の渇きを潤すため、彼女はキッチンに向かった。
 キッチンには、2人の女性の話し声が響いていた。彼女の母親と、数日ごとに様子を見に来るエリーさんだ。エリーさんは、この別荘の所有者に賃金をもらって管理人業をしている地元の中年女性で、別荘を定期的に掃除したり、なにか不具合があれば所有者に連絡したりする仕事をしていた。彼女の一家のように一時的に別荘を借りた人達とも交流し、困ったことや足りないものはないか、地元のことで知りたいことはないかなど、お世話してくれる頼もしい人だった。
「それがね、最近はこの天候ですから、昔ながらの地野菜が取れなくなってきて、本当に困ったものですよ」エリーさんは眉毛を大げさに八の字に曲げ、まさに困り顔のお手本を示して見せた。
 彼女の母親は「あら、それはそれは……」と適当な相槌を打ちながら、登場してきた娘に視線を送った。彼女は会話の切れ目と判断してエリーさんに挨拶をし、母親に「オレンジジュースもらうね」と告げた。
 エリーさんと母親は会話に戻り、この地域の食材事情や異常気象による川の氾濫や土砂災害から、他国で起きている天災について次々と話題を転がしていった。彼女はガラスコップに注いだオレンジジュースを飲みながら、2人の会話をぼんやりと聞き流していた。
 その時、エリーさんが言った。「そう言えば、最近坊ちゃんがこちらに来られて……」
「坊ちゃん」が別荘の所有者の息子だということは、この場の人間の共通認識だった。彼女は、オレンジジュースをガラスコップに追加した。
「そうなんですか、今年は外国にいて忙しいから来られないと聞いていたんだけど」彼女の母親が応えた。
「私もそう聞いていたんですよ。でも急に都合がついたらしくて、2、3日前にこちらに合流されたんです。私も昨日の朝に少しだけお会いして。3年ほど見ないだけで随分しっかりされて驚きましたよ。昔はこんなに小さくてお母様と手をつないでね……」エリーさんは自分の手を太ももあたりで上下させた。
 知らない間に他人の人生半ばの思い出に数えられるなんてぞっとする――と彼女はエリーさんの顔を見ながら思った。
 彼女の母親は、さぞ可愛かったんでしょうねと言わんばかりにフフフと軽く笑い声をあげた後、「息子さんはいつまでこちらにいられるんですか? 今度のパーティには来られるのかしら」と訊ねた。
 エリーさんが答えた。「多分まだしばらくはいらっしゃるようでしたよ。パーティにも来られるんじゃないですかね」
 彼女の母親は「それは楽しみだわ、ねえ」と彼女のほうを向いて同意を求めた。彼女は「うん」とだけ答えて、オレンジジュースを飲みほした。彼に会ったことを言いたくなかった。なぜなのかは、彼女自身分からなかったが。

 エリーさんと母親が別の地元の人の事業について話し始めたので、彼女はその場を退散し、外の海岸沿いを当てもなく歩いた。しばらく歩いていると、遠くのほうで見慣れた黄色いワンピースが目についた――妹だった。
 妹は姉の姿にはまったく気づいていないようで、同年代の女の子2人と一緒にカフェの前に停められた青のセダンの横に立ち、同年代の男の子ひとりと楽しそうに話をしていた。彼女は妹のほうに近づいて行った。
「こんにちは」妹の友人の女の子が彼女に気づき、声をかけてきた。パーティで会ったことがあるので、彼女が友人の姉であることを知っていたからだ。こんにちは、と彼女も挨拶をした。妹をのぞく残りの2人も彼女に気づき、次々と挨拶をした。3人のうち2人はマスクをしていたが、全員見知った顔だった。
 話しに夢中だった妹も、話し相手の男の子の動きにつられて姉のほうに顔を向け、「あっ」という目の開きをした後で軽く手を振った。マスクの下の表情を察するに、なんとなく少しばつが悪そうだった。
「何しているの?」特に興味はなかったが、彼女は女の子たちに訊ねた。彼女たちだけで、こういうきちんとしたカフェに入るとは思えなかったからだ。
「私たち、私の母が来るのを待っていて」妹の友人のひとりが言った。「お姉さんも一緒にお茶しませんか。母もきっと喜びます」
「え、お姉ちゃんは行かないよ」妹が慌てて口を挟んだ。「私たちといても楽しめないでしょ。それに、どこかに行くんじゃないの?」
 そう言うと、探るような目で彼女を見てきた。彼女は正直面倒くさいと感じた。
 その時、目の前のカフェの出入口が開いた。中から、アート志向のキッズファッション誌から出てきたような、5、6歳ほどの可愛らしい小さな男の子と女の子がキャッキャとはしゃぎながら飛び出し、そのすぐ後からカジュアルだが仕立てのよさそうな淡いブルーのシャツとホワイトデニムがよく似合う、きびきびとした雰囲気の40代前半あたりの女性が姿を現した。
 この女性に会ったことがある、と彼女は思った。それなりに有名なモデルで、離婚後は自身のアクセサリーブランドを立ち上げて成功している実業家だったはずだ。たしか昨夜のパーティでも見かけたような気がする。そうだ、妹より2歳ほど年上のこの男の子も、昨夜母親のお供として来ていた。
 子どもたち(おそらく双子)はセダンの横にいる男の子を見つけると、嬉しそうに歓声をあげながら駆け寄った。男の子は子どもたちの頭や背中を軽く撫でながら、「さあ、みんなにご挨拶して」「さあ、車に乗って」と次々と指示を出し、後部座席を開け、エネルギーの塊のような飛び跳ねる双子を順番にチャイルドシートに座らせようと悪戦苦闘していた。慣れているとはいえ生き物相手の仕事ですから、というメッセージが全身からにじみ出ていた。
 双子とその兄が車内でいつもの騒動を起こしている間、彼らの母親であろう女性は、ピンクのリップを塗った品の良い唇に笑みをひとさじ湛え、双子へのリアクションを模索する女の子たちに「あら、こんにちは。皆さんもこちらに行かれるの?」と訊ねてきた。高級ブランドバッグにぶら下がるロゴのチャームが揺れて、夏の日差しを跳ね返した。
「私たち、私の母を待っているんです。母がこのカフェに連れていってくれるので」女の子のひとりが先ほどと同じように答えた。一言一句明瞭なはきはきとした話し方で、人に好感を与えるタイプだ。目の表情も豊かで、私とは違うものが見えているんだな、と彼女は感じた。
「そうなの、じゃあよかった」何が良いのかはよく分からないが、とにかくその女性はそう答えた。
 双子を無事チャイルドシートに乗せる仕事を果たした男の子が、軽快にこちらに手を振り「じゃあ、みんなまた」と言って助手席に座った。彼の母親も「それじゃあ皆さん、良い日を」と言うと、運転席に乗り込み、てきぱきとした手さばきで女の子たちを残して去っていった。女の子たちは助手席の男の子に手を振り、車の後ろ姿を少しだけ眺めていた。彼女の妹も、もちろん眺めていた。
 彼女はどこに行くという当てもなかったが、妹たちと一緒にお茶をする気もなく(急にひとり人数が増えていたら、妹の友達の母親も内心どう思うか……という気がかりも少しあり)、「じゃあ行くわね」と告げて、妹に手を振った。妹もじゃあ、という感じで手を振り返した。
 彼女が歩き出した時、女の子たちが男の子の母親の持ち物について盛り上がっているのが聞こえていた。

 再びひとりで海岸沿いの通りをぶらぶらと歩きながら、彼女は昨夜の出来事について思い返していた。
――あれがベガ、それであの明るい星がアルタイル、それであっちの星がデネブ。これらを結べば、ほら、三角形になる。ずっと見ていると、あの中心点に吸い込まれそうだ。
 確か、彼は最初にこう言った。この言葉が初めての会話。それから私たちは夜空の下で自分たちの人生の一端について語り合ったのだ。まるで生き別れた双子のように、探していた片割れにようやく出会えたように……。
 焼けつくような太陽のまなざしが、眼下でうごめく彼女たちの動きを特等席、または天井桟敷から見ているような、そんな不思議な感覚が彼女の背中に走った。周りには、数人の男女が行き交い、黒いクロスバイクに乗った男性が彼女のすぐ横を颯爽と突っ切っていった。
私は一体どこに向かっているんだろう――彼女はショルダーバッグからフェイスタオルを取り出し、額と首の汗を拭った。
 その時、後ろから「こんにちは」という男性の声が聞こえた。自分に言われているとは思わず、彼女はそのまま歩き続けた。するとまた「こんにちは」という声が聞こえて、彼女は思わず振り返った。例の太陽が彼女の視界に白い幕を張ろうとしたが、その意地悪な作戦にも負けず、彼女の眼は目の前の人物を捉えた――昨夜の彼がそこにいた。
「やあ、また会ったね」彼が言った。別れた時と同じ、控えめな笑みが口元に薄いラインを描いていた。
「こんにちは。……よく私って気づいたね」彼女は浮き立つ気持ちを抑えるように、クールな大人の女を演じて見せた。はしゃぐには、視界が明るすぎるような気がしたのだ。
「うん、さっきあそこのカフェの前で友だちといたでしょ。僕はその数件隣のブックショップにいて、ちょうど出てきたら君が友だちと別れて前を歩いているのが見えたんだ。君だってことはすぐに分かった。で、早足で追いかけて、声をかけた。そして今、僕たちは現在進行形で話をしているところだよ」
 妹たちといた時から見られていたなんて! なんか子どもっぽいことしてなかったかしら――と彼女はとっさに思い、「あれは妹とその友だちたち。私の友だちではないんだけど、偶然あそこで会ったからちょっとしゃべってて……」と、唇を変な角度に動かして言い訳めいたことを呟いた。言い訳することなんて何一つないにもかかわらず、だ。
 昼の光の元で見る彼は、星の光の元で見る彼とは少しだけ違って見えた。わずかに左右の大きさが異なるとび色の目、定規で引いたようにまっすぐで高い鼻筋、うっすらとオレンジのそばかすが散らばる頬、意外と血色の良いフランス人形のような唇、そしてぼさついた髪と青い血管の浮いた腕――それらはあまりに彫刻的で哲学的で誌的で、質量分析計では測れない要素が混在し、太陽が歪ませた空間ではどこかバランスが悪いようだった。
「一緒に歩こうよ」
 彼の言葉をきっかけに、彼らは2人並んで歩きだした。

 少し会話をした後で、彼が唐突に言った。「僕は明日の夕方に帰る」
 彼女はあまりにショックだったため、すぐに適切な言葉を返すことができなかった。いつかはお互い、自分の日常世界に戻らなければならないことは分かっていたが、こんなにすぐだとは思っていなかった――というよりも、考えたくなかった。だが、現実は自分の都合通りには進まない、と彼女は実感した。
 彼は話を続けた。「だから今夜、一緒に星を見ないか」
 彼はそういうと、彼女が過ごしている貸別荘のすぐ近くの地点を集合場所として告げた。その時初めて、彼は彼女一家が彼の両親が所有する別荘に滞在していることを知っていることに、彼女は気づいた。彼が知っているのは当然といえば当然なのだが、なぜか彼女と彼はそんな話題には触れていなかったからだった。
 彼女たちはその夜の約束をして、それぞれの別荘に帰った。


 良く晴れた日の午後3時26分53秒、彼女は記憶の波から浮き出ると、もはや眼下の男の後頭部など忘れたように無表情でデスクに戻った。眼鏡をかけると、男が置いていった無機質な記憶媒体を取り、フラットな目で保存データを精査した。膨大な量だったが、豊富な知識と経験を積んでいる彼女には慣れたものだった。時々、彼女は何か印を刻むように、新しく交換されたアールグレイティーを口に運んだ。
 全てのデータの精査が終了し、男の話に裏付けが取れたところで、彼女は眼鏡をはずすときっちり15秒間両目をつむった。それからデスクの上に飾られている写真を手に取った。
 亡き夫の写真だった。まだ若くそばかすの散る顔の1枚と、満足したように微笑む晩年の皺の増えた顔の1枚。どちらもとび色の目の輝きが美しいと、彼女は常々感じていた。
 写真を元の位置に戻すと、彼女は立ち上がり、壁にはめ込まれた扉を開けた。そして現れたダイヤルをゆっくりと慎重に左右左右……と回した。ある時点でカチっと音がし、開錠された。中からまたダイヤルが出てきた。このダイヤルもまた、彼女の手によって開錠された。
 まさか私の代で使うことになるとは――彼女は今現在の置かれている立場に苦笑いした。現実は自分の都合通りには進まないのだ、セ・ラヴィ。

 それから彼女は、最後の扉の中に納まっていた旧時代の電話を取り出すと、受話器を上げて番号を回した。規定通り3回目のコールで相手が出た。彼女は状況を説明し、「終末時計は1秒過ぎていた」事実を伝えた。
 全ての要件を伝え、データを適切に届ける手配をすませると、彼女は窓の外を眺めた。外の世界は深夜どころか、新しい朝を迎えようとしていた。
 そういえばここ数年、夏の大三角を見ていなかった――と彼女は思い、あの夜の思い出の記憶へと旅立っていった。
〈了〉

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