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36年前,一人自転車部員だったある高校生の話

 お盆休みに実家に帰省したときに家の中を探したところ,学生時代に使っていた懐かしい用品類の入ったダンボール箱が出て来たので,持ち帰ってきた.

本当は段ボール3箱分くらいの用品類があるはずなのだが,今回はこの1箱しか見つからなかった.

 今から36年前.入学した高校で自転車部の設立を先生に打診してみたものの「校外でそんな危険な行為をするなんて部活動として有り得ない」と一蹴された.
まぁ,そうだよね.

そういうわけで,非公式の一人自転車部として放課後に活動することにした.このダンボール箱の中身はその頃のものです.

 今更こんなものを紹介しても,誰の何の役にも立たないのですが…
その昔, ロードバイクに熱中したあるひとりの高校生のお話ということで,興味のある方はご覧ください.
 なお,このnoteは 途中からヤバイ内容 (笑) になっておりますが,ロードバイクにご理解のある方を対象とした記事ですので,その点ご了承ください.

1.LOOK関連

LOOKとシマノのカタログ

 1986年,まだスチールフレームの全盛期,ツール・ド・フランスの山岳ステージではじめて実戦投入されたカーボンフレーム,LOOK  KG-86 に乗ったグレッグ・レモンが活躍して初優勝し,カーボン時代の幕が開けた.
カタログのKG-96はちょうどその頃, KG-86 の翌年の第二世代のカーボンフレームです.

私が持っていたLOOKのカバン

LOOKのカーボンフレームに憧れつつ,当時は買える訳がなく…
ペダルやカバンなどで自己満足していた.
片道5kmをセカンドバイク(中古のBS スポルティーフのフレームに 105 と Adamas AX  で組んだバラ完ロード)で通学.
左のLOOKのカバンは高校の通学にも使用していました.
入学早々ついた私のあだ名は「るっく」,単純明快 (笑)
同じクラスですぐに友達になったS君により命名された.


当時,私が入学した高校の校則では
通学に使用するドロップハンドル車はセーフティーレバーを装着すること」とされていた.
 しかしロードレーサーにセーフティーレバーみたいなカッコ悪いものは付けたくないし,そもそもセーフティーレバーなんてDIA-COMPEのルック車用のものしか見たことがない.
 ところが,入学1ヶ月後に自転車通学者の車検があって,数学の鬼教師が担当する予定とのこと.
 どうしようか考えあぐねていたところ,町田のイトイサイクルに「シマノ Adamas AXのエアロブレーキ用純正セーフティーレバー」という,当時としても激レア過ぎる商品があるのを偶然発見し,購入・装着して難を逃れた.

 車検では噂通り,数学の鬼教師のO先生が担当だった.
自転車通学をする生徒が順番に並んで,1台ずつ点検を受けた.
他の生徒のママチャリは目視で確認するだけで終わるのに,僕の順番が来ると,この鬼教師は何故か僕のロードについては実際に乗ってみて確かめると言う (笑)
そして,自転車置き場を軽く往復して戻ってくると,
サドルたけーなぁ,よくこんなもんに乗れんなぁ.セーフティーレバーも付いてるな.ヨシ 合格
と言われ,無事に車検を通過することができた.
 なお,車検は入学後のその1回だけで,その後は卒業までなかったので,セーフティーレバーもその1回しか使わなかった.


2.ヘルメット

JACF公認, OGK SH-909
ヘルメットを被るのは競技に出るときだけ.
トレーニングやサイクリングではノーヘルが普通だった.
この頃,たしか公認ヘルメットは2種類くらいしかなく,レースでは皆同じヘルメットを被っていた.


3.サングラス

 ロードレースの選手がサングラスを使うようになったのは,1986年頃のベルナール・イノーとグレッグ・レモンによるOAKLEYが最初だった.
 OAKLEYは高くて買えなかったが,その後もう少し安い RUDY PROJECT が出たので,私はそれを使っていた.

 ちなみに,その後ヘルメットを常時着用するようになってからはサングラスの使用を止めた.私の場合,ヘルメットのアゴヒモのある状態でサングラスをすると顔の周りがうっとおしく感じてダメなのです.
(本当は,ヘルメットもサングラスもせずに,そのまま乗るのが一番爽快なんだけどね)


4.メーター

 CATEYE CC-7000,機能的には現在のCATEYEのメーターとほぼ同じ.このころデジタルメーターは既に完成形となっていた.
 これよりもう1世代古い,最初期型のCATEYE CC-3000というメーターも持っていたけど,どこいったかな? この段ボール箱には入っていなかった.


5.ヘッドライト

上; CATEYE HL-200(ハンドル取付,単1乾電池2本)
下:ナショナル フォーカスライト FF-292S (ハブ取付,単2乾電池3本) 
どちらも電池が3時間くらいしかもたなかった.


6.輪行用の切符

国鉄時代の普通手回り品切符,250円
当時,輪行するのに手荷物料金がかかり,窓口で上のような切符を買って輪行袋にくくりつけた (輪行が無料になったのは1999年から).
昭和61年で伊東駅と書いてある.
ロードマンに乗っていた頃だけど,ロードマンで輪行したかなぁ?
まったく記憶にない.

(9月12日追記: 何となく思い出してきたけど,中学2年生の頃,輪行袋を買ったばかりの時に伊東から試験的に初めての輪行をした気がする.このとき,ロードマンは輪行しやすいようにハブをウイングナット仕様に改造していたことを思い出した)


7.走行記録

 日記や記録をつけてなかったから,いつどこに走りに行ったかというログは一切ないが,1988年のカレンダーにかすかにメモ書きが残っていた.
6月5日に 276km のロングライドをしたらしい… (どこに行ったのか,まったく覚えていない)
 1988年の7月から11月までの5ヶ月間に52回乗っていて,うち17回は江ノ島・茅ヶ崎・鎌倉方面の湘南海岸コース.これがお気に入りのトレーニングコースで学校から帰宅後によく走りに行っていた.
5ヶ月の間に箱根は3回,ヤビツは1回だけで名古木から峠まで40分44秒とのメモがあった.

8.ルートマップ (神奈川県)

 道路地図から距離を読み取り,上のようなルートマップを作ってその日のコースを決めていた.赤線が国道で黒線が県道.当時住んでいた綾瀬からヤビツ峠までなら 9+7.5+7+12=35.5km とわかる.

 土山峠を超えて宮ヶ瀬まで往復するのも放課後のお気に入りのコースだった.宮ヶ瀬ダムができる前で,峠のあと宮ヶ瀬大橋のある谷底までダウンヒルしたのち,宮ヶ瀬集落まで駆け上がる坂があった.
 はるか上方の山の中腹に新しい県道や橋が少しずつ出来上がっていくのを見て,「ダムが出来たら峠から平坦のまま宮ヶ瀬まで行けて楽になりそうだな」と思ったものだった.

 2017年の渇水で宮ヶ瀬湖の湖底に沈んだかつての県道が現れてニュースにもなった.このルート(下の写真)をいつも走っていて,このコーナリングもよく覚えている.
登っても下っても楽しい道だった.
 単なるローディーの感傷に過ぎないけれども,このルートを無くしてしまったのは本当に惜しいと思う.

宮ヶ瀬湖の湖面の低下で現れた土山峠から宮ヶ瀬大橋まで下る旧県道.
写真は「マッキータウンぶろぐ」より


 ルートマップの下にはギヤ比のメモがある.シマノの7速カセットスプロケットはフリー1枚ごとに自由に組むことができた.
平地なら13-19のクロスレシオ,
ヒルクライムなら,
 今日はあの激坂があるから26T入れとこうかな…
 あの峠なら23Tまでで十分だな…
など,行き先によってスプロケットを組み替えて乗っていた

 ギヤの多段化が進んだ今ではメーカー指定の組み合わせでしか乗れないから,スプロケを組み替えるという概念がなくなった.
頑丈な完組ホイールが出て,ホイールの振れ取りをすることも無くなった.
タイヤも性能向上して,滅多にパンクをしなくなった.
 今のロードパーツは全体的にメンテナンスフリーとなって,手間をかける機会が大きく減った.
 昔のロードバイクは今と比べていろいろと手入れが必要だったが,
ロードは自分の体の一部,自分と一体になるというリアルな感覚があり,それをあれこれ考えながら最適な走りができるように調整・メンテナンスをしながら乗るのが意外と楽しかった


9.タイヤ

 左はクレメン Futura-α,右はクレメン クリテリウム (後期)
 空気を入れてみたらどちらもパンクしていた.クリテリウムは就職後に買ったやつだな.学生時代はこんないいタイヤは買えなかったから.クリテリウムは直せばまだ乗れそうな雰囲気だ.
 当時のローディーはクレメン派とビットリア派がいて,私はクレメン派だった.クレメンはプロロードレーサーの半分くらいのシェアを持つ有名タイヤメーカーだったが,90年代に倒産してしまって今は無い.


10.卒業文集(中学校)

 中学校の卒業文集.ひとり1ページ,何を書いてもよいということだったので,第74回ツール・ド・フランスのコースを描いた.
 出来栄えを褒められて,文集のトップページに掲載された.


11.妄想ノート

「空想地図」という趣味のジャンルがある.
実在しない都市や地形を妄想して地図化するというもので,私も中学生〜高校生の頃に大きな白紙を使ってよくやっていた.

 ひとり自転車部員の妄想が進むと,次に来るのは,妄想ロードバイクや妄想パーツである.そのときのノートが段ボール箱に入っていた.
今から考えるとメチャクチャ恥ずかしいのだが,若気の至りということでご理解いただくことにして,その一部を紹介する.
(画像をクリックすると拡大表示になります)

上から,ステム,フレーム,メーターでカタログ形式になっている.
上から,RD,FD,Wレバー,ブレーキ,シートピラー,サドル,ハンドル

価格の高い上位グレードになるほどパーツが軽量化され,デザインがカッコよくなるという,わかりやすい差別化がなされていた (笑)

リムのページはコンパスで円を描いただけ (笑)
ファニーバイク用の24インチや700C WOタイプもある.
この他にディスクホイールのページもあった.

15歳の頃に妄想したコンポセット.ブレーキレバーはカーボン製.
ペダルはよくわからない三角形のビンディングタイプ.
RDのデザインはDuraAce AXの影響を受けていることがバレバレである (笑)

ボクの考えた最強のロードコンポってやつですね.
その名も「Victorious 」シリーズ.略してVTO
上の絵はその最上級グレードである「New Sensor」である.
コンポ一式33万1千円らしいです (笑)

なお,上の絵はダイジェスト版で,実はこの妄想パーツカタログの根幹をなす,妄想パーツのひとつひとつをより詳細に描いた核心部分(メインページ)があるはずなのだが,ノートが分解されていて,その部分だけごっそりと欠落していた.
 あと,妄想コンポを装着したカッコいい妄想ロードレーサー(完成車)や妄想ピストを描いたノートもあるはずなんだけど,この段ボール箱には入っていなかった.
どこいっちゃったのかなぁ

たしかVTOを考案したのは中学生の頃
その後,高校生になってからVTOに対抗する別メーカーを立ちあげて「DETLUS (綴りが違うかも)」という妄想コンポも考えた.
そちらはさらに丁寧に描いた記憶があるのだが,これもノートが見つからない.

12.妄想TDF

コンポを妄想すると,今度は走らせてみたくなりますよね.
なりませんか?  普通はなりますよ? 

そこで思いついたのが,妄想TDF(ツール・ド・フランス)です.
妄想TDFとは何かというと,妄想コンポを使用したロードバイクに乗った選手を脳内TDFで競わせるのである.

やり方:
(1) A4 ノートに縦線を入れて,表をつくる.

(2) 出場チームとメンバーを妄想する(ノートに書く).基本は実在するロード選手なのだが,実年齢や時代の違いは考慮しないので,エディ・メルクスとシャーリー・モテが同じチームだったりする.
 全体で100人くらいが参加する.
 あと,日本人だけのスペシャルチームも編成する.
 森幸春,高橋松吉,市川雅敏,鈴木光広,浅田顕などロード界で活躍していたエリートメンバーに加えて,なぜか中野浩一
世界戦スプリント10連覇ということでロード競技も強いハズという設定なのである.
(その後,ジャパン・プロロード・プロジェクト(JPP)でこれに近いチームがリアルに発足したのは,当時とても感激したものだった)

(3) コースとステージを設定する.ステージは大会1回あたり30ステージくらいあり,実際のTDFよりも多かった.

(4) ステージごとに,各選手のレース展開を脳内妄想しながら,サイコロを複数回振る.サイコロの目をタイムに換算して順位が決まるという単純な遊びである.
 その日の上位から順に選手の名前とタイムをノートの表に記入していく.参加選手100名全員でこれをやるととても大変なので,上位25名くらいの各チームのチームリーダーや主なアシスト選手のみを想定して進める.

 ただし,自分の妄想コンポを使用したチームだけは良い目が出るまで何回でもサイコロが振れるという,特別ルールであるところがミソである.
 早ければ1日で10ステージ分進んでしまうこともあるし,1ステージの妄想に時間がかかるときには,実際に丸一日かかることもあった.

(5) (4)を約30回 (ステージ)くりかえし,最終日に総合トップとなった選手が優勝となる.
 優勝をすれば,そのチームが使用したフレームとコンポは,高性能と耐久性を兼ね備えたパーツとして,世界中に広くアピールすることができるのである.

たしか,妄想TDFは第7回大会くらいまでやって,1回だけ宿敵Panasonicチームに敗れたが,それ以外は妄想コンポのチームVictoriousが優勝した… と記憶している.
なお,日本のスペシャルチームは毎回完走がやっと… という結果であった.妄想TDFだからといって日本人選手に甘くはないのである (笑)

妄想コンポを使用する妄想チームのチームジャージ

妄想TDFのノートはさすがに捨ててしまったかなぁ
今回の段ボール箱には入っていなかった.


13.もしもあの時スマホがあったなら

 
 36年前,周りに同じ趣味の友達はおらず,上に書いたように,僕は一人黙々とロードレーサーに乗り,ロードパーツを脳内妄想する孤独な高校生であった.
 一人自転車部員だから自分の都合でなんでもできて気楽だったし,それなりに満足はしていたけれども,本当は一緒に走れてロードパーツの話ができる仲間が欲しかった.

 ショップ系のクラブチームに所属するという選択肢もあったが,そうしたところは,普通はそのショップで完成車を買った常連客が対象だった.
僕は当時複数の店を利用していたし,ロードレーサーは最初からバラ完自作派で完成車を買ったことがないから,クラブチームの門を叩くのも気が引けた.


 高校に入学してしばらくたった頃,こんなことがあった.
 ある平日の放課後,江ノ島・鎌倉コースのトレーニングの帰り道,国道467号の「みその坂」を過ぎたあたりで,ひとりのロード乗りに追いついた. 
 当時,自転車はとてもマイナーで珍しい趣味だったから,こういうときにはお互いに挨拶をして,「どちらまでですか? 」などと声をかけたりするのがマナーであった.
 聞くと,県内の強豪 藤沢北高校の自転車部員で僕と同じ高校1年生,トレーニングの帰り道だという.
しばらく話をしながら一緒に走った.
話がはずんで,その後歩道で休憩しながら,お互いに乗っているロードフレーム,使っているパーツ,トレーニングコースや海外ロードレースの話をした.

 僕は当時,サイスポの別冊パーツカタログを丸暗記するほど隅から隅まで熟読していたが,相手も同じようだった.
 もうひとりの自分とパーツの話をしているようで,とても不思議な感覚だった

夕方の国道沿いの歩道に座りながら,夢中になって2時間くらいは話し込んだだろうか.
気がついたら,あたりは日が暮れて真っ暗になっていた.
お互いに完全に意気投合して,
また今度一緒に走ろう」と約束をした.

 約束をして互いの名前と電話番号を教えあったものの,メモ用紙がない.相手は僕の電話番号を暗記して家に帰る自信がないという.
そこで,僕は自分の腕時計を使うことを思いついた.
「へぇー,君の時計は電話帳の登録ができるんだ」と言われたが,そうではない (当時,そういう腕時計も売っていた).
相手の電話番号「市外局番-AB-CDEF」のABCDEFの部分を,デジタルの日付やアラーム設定の部分で数字配列させて記憶させればよいと思ったのだ.
その日はそうして,いつもよりも遅くにトレーニングから帰宅した.

 翌週,藤沢北高校の彼に連絡をとろうとして電話をしてみた.ところが電話が一向につながらない.
どうやら,腕時計で記憶させたハズの電話番号がどこかで間違っていたようだった.
そんなわけで,あの時の彼とは二度と会えなくなった
もちろん,高校の前で待ち構えていれば会える可能性はあるが,ひとり自転車部員の自分としては強豪校の前でそんなことをする勇気はなかった.

 僕のロードバイクでの走り方の原点は,こんな感じの高校時代の「一人自転車部」にあり,それを引きずってかどうかはわからないが,以来,今に至るまで基本的にはずっとソロで走っている.

 だが,もしもあのとき,今のようなスマートフォンがあったなら,相手とその場でSNSを交換して,翌週には一緒に走りにいくこともできたんだろうな
そして,その後の自分の自転車の楽しみ方も変わったのかもしれないな…  などと思ったりもするのである.


終わり

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