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「食」で表現をすることの大切さ

こんにちばんわ。

今回は少し真面目に仕事の話を。

なんだかこう書くといつも真面目じゃないみたいだけど。(笑)

で、今日は僕が最近考えている食の仕事で今やろうとしていることをつらつらと書いていきますね。

僕はいま肩書を「食で表現する人」にしたいと思っている。

なぜかというと、飲食店をやっていないし、茶寮に関しても日常から離れた特殊な空間を創造することに重きを置いているし、料理作品にはいちいち哲学やストーリー性をつけている。

半年ほど前に東京で「食べる美術展」というものをやっている。

それは文字通り「食べることのできる美術鑑賞」を主としたイベントだ。そのイベントの詳細とかは一か月後くらいにパンフレットとCDを販売するつもりなので興味があったら見てほしい。
すごくいい展示会だったと思う。スタッフ全員が寝ずにワクワクしながら当日までつくりこめた本当に楽しい展示会となった。
ちなみに来年の二月に今度は上野で開催予定だ。興味が有る人は僕のことを追ってほしいし、そのことに関してはまた別のページで詳しく話そう。

で、僕が今、何故レストランや飲食店などにしないのか。料理人という肩書ではないか、「食の表現の大切さ」とはなにかを書いていこうと思う。

そもそも(持論としてだが、)「飲食」という基盤そのものが実はアート(芸術的表現)に昇華しにくいジャンルではあると思う。
なぜアートにならないか問題点を挙げていこうか。

1、衛生面の問題

2、「食べる」行為に直結する生命維持活動としての重要性が高いから

3、食に対しての価格が低い(2に付随する)

4、アートにするには作品の鮮度が落ちるのが早すぎる

挙げられるのはこの四つの問題点だろう。

1に関しては言わずもがなだ。衛生的でなければ食べることはおろか見ることすら敵わなくなる。

2が一番の重要な問題だと思っている。食べるという行為がどれだけ人の生死、肉体の維持に関わっているか。この問題があるからこそ、食に対して「安心・安全」を求め、もっというならアートにはそぐわない「分かりやすさ」が求められていく。日々の食事、体を作る為、生命維持としてはやはり一番に求められる要素ではあるけど。

3は2に付随する理由だ。
日々の食事、生命の維持や習慣、人生で考えたら数千回もある行為に莫大なお金はかけることができない。

4はアート作品としてはあまりにも鮮度が落ちるのがはやいということ。
これは文字通り食材として、料理として考えてもわかりやすいと思う。一枚の絵の持続は何百年とあり時代が経つことで価格もあがることを考えたら、「食」はあまりにも刹那的な価格的価値だろう。

この4つの点から考えた場合「食での表現」はほぼ無理に近いし、何より今、現代の日本において人はそれを求めてないと思う。

では何故「食での表現」をやろうと思っているか。書き出そう。

①、五感を使う事のできる芸術鑑賞

②、「食」というものを嗜好品としてみることができる

③、「食」に対する価格的価値を上げることができる(2に付随する)

④、「食」に対する多様性を期待できる

⑤、新しいレシピや技術の研究、一人の考えを伝えるツールとしての役割、「文化の創造」をつくる可能性がある

⑥、単純にやってみたいし、面白そう!!!!!

とこんな感じだ。

①はまさしく五感を使う三次元的芸術鑑賞が可能になるということだ。今まで芸術鑑賞は二次元的であり、「見る」と「聞く」しかできなかったものに、「触る」「嗅ぐ」「味わう」という三次元的な動作も加えることができ、参加型の芸術鑑賞をすることができるようになる。

②は問題点の2と対比できるかとおもう。1日3回ある食の習慣で半年に一回、はたまた1カ月に1回の食事のなかで「芸術的な嗜好品」として楽しむことができるようになれば「生命維持としての食事」と良い関係性を保ちながら棲み分けができるようになる。

③は②と直結していて「芸術的な嗜好品」として見ることができるようになれば価格的価値は「生命維持としての食事」と相場を合わせる必要性がないし、価格を上げることができる。そうすれば結果的に「食での表現」に色んな人が携わることができるようになるかもしれない。

④での多様性は「食べる」という動詞の行為だけでなく、もっと広い意味での「食」の捉え方とそれに関するアプローチの仕方を考えていくことができるかもしれないという事。香り、味、だけでなく探求、狩り、研究、学問、健康、などなどいろいろだ。

⑤は「エル・ブリ」を例に出せばわかりやすいと思う。わからない人はググってほしい。が、そんな感じで研究、探求をすることで人類の発展にも繋げられるし、もしかしたら宇宙食の発展や、飢餓に対する新たな食材への調理方法、今まで食べることのできなかったものが食べれる、美味しくなるかもしれない可能性なんかもでてくる。

そして肝心な⑥。
これがなきゃできないし続かないしやろうとも思わない。(笑)一番大事な部分だと思う。

こんな感じで「食の表現」に対する問題点となぜやってみたいと思ったかのざっくりとした事柄をまとめたつもり。
まだまだ構想段階なのはぬぐえないし、これからどうしていけばいいのかも分からないけどすこしづつでも挑戦していくつもりだ。

ちなみに冒頭に書いた、なぜ飲食店じゃないのか、なぜ料理人としないのかは③の棲み分けをしたいから。本格的なレストラン設備は欲しいし、この理念に同意して一緒にやってくれる仲間も集まってほしい。だけどその形は「レストラン」では絶対にないと思っている。ラボや劇場の方が近いニュアンスだ。

こんな感じで「食で表現する人」になって、「食で表現」をもっと大切にしていきたいと思っている。

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澱と葉 主宰 素のままproduct 
川口潤也

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