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吾輩は人である。希望はまだない。

「そんなに人間味あるんや」

ある友人に言われました。

その友人曰く私はあまり悩みなどなさそうとのこと。
さらには何か馬鹿にしているんじゃないかと言われてしまいました。
何か企んでいるのではと思われるそうです。

ですが実際のところ、今の私はそんな人間からは果てしなく遠くにいます。
メンタルは最弱クラスですし、何か特別な能力も、相対的な実績も、誇らしいことも、ましてや誰かから頼られるなんてのもありません。
明日生きるための意味を見出すのが精一杯でございまして。
この帰省の二ヶ月間で数週間分ほどの価値を見出していただくことができました。賞味期限付きの人生の価値を探し続ける私に価値を与え続けてくれる全ての人が私より幸せでありますように。


いよいよ関西を発つ日が近づき、物足りなさや絶望感が漂って参りました。
心の準備は未だ整っていません。
過去の愚かな私の清算も含め、さまざまな懐かしのある人たちに再会いたしました。
恋人や友人はもちろん。塾や母校の先生方、後輩と様々。どの瞬間をとっても、もう一度あの頃に戻りたいなと思わせるひと時ばかりでございます。

同時に昔の自分の行いに溜息ばかりが残ります。
与えられた環境が当たり前だと思い、生意気で、自分勝手な青二才な私。
今も多少そうでしょうが、傲慢で愚かな人間でした。

そりゃ、嫌われるわけでございます。

私を論理武装したカリスマ気取りだと思っていた友人もまた私を嫌っていたでしょう。今もまだそう思っていることでしょう。実際に過去ではそうだったわけなのですが、そのイメージが定着していることもありまして、まだまだ嫌われ者の看板を掲げなければならないでしょう。
ですが昨今私は自分の弱みを人に開示することに躊躇がなくなってきました。
「強がったってお前なんて誰も見てない」
そう何度も己に言い聞かしたものです。
そう言い聞かせざるを得ない環境に立ったのです。

さて、最近の私の傾向といたしましては、共依存に向いているタイプの人間であることが発覚しました。これを言い当てた友人はかなり私を客観的にみている人だなぁとしみじみ感じ、これによって私の心にあったモヤモヤが少し言語化できました。
私が何を成し、何を行なっても、満たされない理由がわかりました。
それは私が一番の友人と思っている人の一番になれないことが辛いのです。
例に出すとするならば、私が今まで一番の友人と思っていた人が共通の友人に対し「やっぱり○○って面白いよな。やっぱあいつが一番だわぁ」とボソリと呟いたのです。
なんとまあ、悲しきことでしょうか。
そんなことが多々ございまして、私など到底眼中にないのでしょう。
自分が好きでいるのだから好きになってくれという傲慢な考えにも見えますし、それも正しいと思いますが、私としては胸の穴がポッカリと空いた感覚に陥りました。
私が勝手に友人と思っているに過ぎませんが、友人が少なからずいます。
ですが、基本的に相手方は私など眼中にないため、他の素敵な友人と手を繋いで離れていってしまいます。
ふと気づいた瞬間、一人ポツンと友人と勘違いしていた相手達が楽しそうにしているのを眺めています。
私はそれが、ものすごく寂しいわけでございます。
ですが、そんな性格が治る見込みも、ましては友人と勘違いしていることに気づいてもなお、友として何か助けることはやめることができません。
私の原動力なんてものはそれっぽちなわけでございますが、
もう少しだけ、もう少しだけ、
心の底から友人と呼べる人間を見つけ、そう言われるような人間になろうと思います。
一人ポツンと眺めてみようと思います。
少しでも私が友人だと思っていた人たちの、腐れ縁くらいにはなってみたいものでございます。
もちろん友人と呼んでくれる人はいます。でも腐った性根の持ち主である私は「あぁ、また気を使わせてしまったなぁ」としか感じないのです。
なんとまあ、めんどくさい奴なんでしょう。

人間関係の話はここまでといたしまして、私は1ヶ月間、母校で総合型選抜のインターンシップを行いました。教育という業界に足を踏み入れ現場で生徒と向き合う経験は、あの時あの場所でなければ得れない、かけがいのないものばかりでした。そこで担当になった高校生の受験に向かう姿を見ると、心打たれるものがあります。
自分の好きなことにひたむきに、
そして自由に夢を追う。
かつての私もそうであったように。
かつての私を褒めれるところがあるとするならば、そこくらいでしょう。
様々な生徒をみている中で、相談などを受けることがありました。
私如きに答えられるものなど数知れているわけではありますが、話を聞くだけでも楽になるだろうと思い、傾聴に徹しました。
そこで人間関係に悩みをきたしている高校三年生の学生に会いました。
友人がどうだ、クラスがどうだ、様々でしたが、私は少し羨ましいなと思いました。なぜならその生徒の悩みというのは文字通り「外」に存在しているからです。「外」に悩みの根っこがあるのならまだ解決の方法も考えれますし、距離を置くことすらできます。
話を聞いていくうちに恥ずかしながら私の状態も重ねてみました。私の人間関係の悩みというのは「内」にありまして、外である環境や友人に関しては全く非はあるはずがありません。私は私の「内」が勝手に渦巻き、勝手に友人だと思いこみ、勝手に期待し、勝手に裏切られたと感傷し、勝手に絶望するのです。解決の方法など、一度死んで蘇るくらいしかないと思います。
まだ、外に原因を見出せている学生は有望です。
私としても、責任を持って指導を行いたいものですから、いろいろアドバイスはしてみました。ですが、どれもこれも、今の自分に言いたいことだったのかも知れません。

こんな腐り切った私ではございますが、前に進まなければいけません。
それが前なのか後ろなのかはわかりませんが、
とにかく、この足を止めるわけにはいかないのです。
母校にて初めて会った生徒が、「先生」と呼んでくれたわけですから、その子が高校を卒業するくらいまでは生きようと思います。
私の小さな背中なんて、見ている人は居ません。
ましてや追いかけている人など居ません。
ですが、追いかけられる背中など持ち合わせていなくとも、肩の荷を少し一緒に背負う事くらいならできるかもしれません。
昨今では自殺の報道が絶えず、自傷が平常となってきました。
どこかで苦しんでいる人がおり、もしかすると、その荷物を私だからこそ、共に背負えるかも知れない。
そう思わせる、二ヶ月の帰省でございました。

これを読んだ人は
「なんてダルいメンヘラなんだこいつは」
と思ったことでしょう。
完全無欠の論理武装したカリスマもどきとは程遠い存在ということをわかっていただけたでしょうか。
そう、わがはいは「ヒト」なんです。
そして、寿命が減っていくというよりは、
一週間先の予定のために生かされているというような希望も夢もへったくれもない生活をしています。ですが、まだ少しだけ、あと少しだけその希望とやらを探そうと考えています。
だからこそ
「我輩はヒトである。希望は『まだ』ない」
のでございます。

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