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海のまちに暮らす vol.17|タイミングというものに関して、僕の人生はそれなりの寵愛を受けている

 「のもとくん、一度真鶴カメラにおいでよ」

 5月のある日。真鶴在住の写真家、シオリさんとモトコさんに誘われて、言われるがままに〈真鶴カメラ〉に参加することになった。

 〈真鶴カメラ〉は半年前からはじまった企画らしい。主な活動はカメラを持って町を歩くこと。真鶴に住む老若男女が、自分たちの暮らす町の姿を自分たちで写真に撮って発信していくというものだ。今回のテーマは「お店」。わが町自慢のお店を撮ろう、ということで2班に分かれて散策、もとい取材がはじまった。山側のエリアを訪ねることになった僕らの班を率いてくれるのは映像作家のナオユキさん(vol.8でハタケ部に誘ってくれた)。昼食を終え午後の日差しのなかをゆく。目的地までは歩くと結構かかるらしいので、ナオユキさんの知り合い・ミッキーさんの車に乗り合わせること数分、目指すのは半島の先端だ。

 高台の山道で車を降り、そのまま脇道を下ってゆく。この辺りには初めて来る。標高が高く、眼下には一面の海。その海に向かいあわせるように、斜面に沿ってぽつりぽつりと住宅が立ち並んでいる。ほとんどの家が1階建てで、皆同じくらいのスケールだ。おそらくどの家に住んでいても窓から海が見えるのだろう。この町ではあらゆる家屋のあいだに、海への権利、空への権利、みたいなものが等しく分配されているような印象を受ける。もともと漁師の多い町だから、家から海の様子が確認できるほうがいいし、急に誰かが背の高い家を建てだしたら、後ろの家から海が見えなくなってしまう、という事情が生んだ景観であるらしい。それはハズレ座席のないベースボールスタジアムの自由席みたいなものかもしれない(どこにいてもファウル・ボールが飛んでくる可能性がある)。そんなことを考えながら坂を下ると、右手に木々の茂った敷地へつながるプロムナードが現れた。「ここだよ」とナオユキさん。

 この日訪れたのは、〈スクランプシャス{scrumptious}〉という服飾メーカー。鎌倉から移住してきたヤンさん・ノンさん夫妻が、半島の高台にある森を切り拓いてアトリエにし、そこで上質な服をつくっている。広大な庭にはさまざまな種類の樹木が生え、花が開き、それは森林の隙間で一時的に開催された静かな宴の会場を思わせた。植物はのびのびと枝葉を広げ、しかし人間の領土を脅かすことなく、程よい具合に刈り込まれている。

「はじめは何もみえないくらい鬱蒼としていてね。この木々を切れば海がみえますから、って不動産屋には言われたんだけど」

 ワークパンツの上にオリーブグリーンのジャンパーを羽織ったヤンさんは、そう言って笑う。ノンさんはブルーのシャツにピンクのスカーフを巻いている。2人は自分たちの手で草木の手入れをしながら、この場所で暮らしているのだ。

 真鶴には「お林」という神聖なエリアがある。江戸時代に起こった火事「明暦の大火」によって木材が大量に必要になった幕府が、小田原藩に命じて真鶴に15万本ものマツ苗を植えさせたのだ(15万本? ここで僕は15万本のマツの木を思い浮かべる。しかしうまく実感を持つことができない。ある一定のレベルを超えた数値は僕の頭から想像力を奪ってゆき、それはもはやただの6桁の数の羅列として、「大量な」という緩慢で漠然とした印象だけを置いていく)。そのマツ林の名残が今も真鶴半島に残っている。当時はマツだけの林だったのが、今ではクスノキやスダジイなどの巨木も生い茂り、豊かな生態系を育むようになった。お林でつくられた栄養素はそのまま海へ流れ込み、海藻を茂らせ、魚種に恵まれた美しい海をかたちづくっている。ここ真鶴では、森が魚を育てているのだ。そして、〈スクランプシャス〉の2人の土地は、そのお林エリアの内部に位置している。

 2人が最初に土地を手に入れた時、この辺りはジャングルのように手付かずの森林だったという。そこから木を切り倒し竹を刈り、土台を整えてアトリエをリフォームしていったのだ。そのプロセスは移住というより、開拓に近いのかもしれない。

「はじめはなるべく草木を切らずにおこうと思っていたの」とノンさん。しかし野生の植物はものすごいスピードで成長して、あっという間に民家を覆ってしまったという。植物に住む場所を追われるか、植物を(ある意味では)打ち負かして生活圏を立ち上げるのか。そこには黙々とした争いがあるのだと思う。そういった歴史のことを想うと、たしかにこの土地には試合を終えた闘技場のような寂寞とした感じがあった。

 ある範囲に生息する植物を徹底的に打ち倒そうと思えば、当然、現代の人類の技術力をもって達成できてしまう。けれども、どこもかしこも大型のパワーショベルが圧倒的なフィジカルで大地を根こそぎ制圧しているのをみると「そこまでやっちゃあ、あんまりだろう」と僕は一人で漏らしてしまう。それは別に法的観点でも社会共通の倫理感からというわけでもなく、ごく個人の身体的な感覚からくる感想にすぎないのだけれど、あえて言うなら絶対的な圧倒性みたいなものを自然のなかではたらかせるやり方にあまり賛同ができないということかもしれない。やりすぎてはいけないのだ、何事も。最近はみんなやりすぎる傾向にあるからいけない。SNSでも相手を攻撃しすぎている人をよく見かける。何がなんでも勝敗をつけようとして、相手が参っているのにボコボコ殴る。そういう人の周りには不思議なことに、同じように攻撃的な人たちが集まってくる。そこにはプレーの正当性をジャッジする審判もいなければ、試合終了を知らせるタイムキーパーもいない。既に折れて倒れた電信柱を寄ってたかって足蹴にしているようで、あまり気分の良いものではない。それは闘いではなくて単なる殴打であり、暴力である。

 話を元に戻そうと思う。ここでいう闘いとは、どちらかに明確な勝敗をつけるためのものではない。植物と人間、互いの折衷点を見出すための闘いという位置付けにある。互いに相手の生活のなかに入っていき、その内(あるいは境界線上)に自分の生活を打ち立てるという行いだ。つまり互いの生活の営みに関わる取り決めなのだ。そういう視点でみれば、闘いは既に我々人間同士の日常生活にもまぎれている。「今このテーブルで大事な手紙を書いているから、あんまり揺らさないでね」とか、「脱いだものをここに散らかさないでおいて」とかいう、あれだ。ちょっとしたコミュニケーションのようなものだ。そういったコミュニケーションを成り立たせるために、草を刈り木を間伐しながら、植物はこの辺りまで枝葉を伸ばします、人間はこの隙間で生活します、という互いの宣言を確認し合うのだ。

 その絶妙なバランスを、〈スクランプシャス〉の2人は丁寧につかんでいったのだと思う。庭にはブナをはじめとした広葉樹がたくましく幹をたずさえているし、足元には名も知らない野草の花が散らばっている。その緑地の中ほどあたりに木造の古民家がごくひっそりと生えている。建っているというよりは生えているというほうがしっくりくる。その古民家はずっと前からそこに根を生やしている大木の切り株みたいに、深い沈黙を守っているようにみえる。

 そのあと、2人が仕立てた服をみた。〈海の泡のドレス〉。真鶴の深い海の色を幾重にも重ねたような装飾と、落ち着いた風合い、品の良いフォルム。その佇まいに向かい合うと、独立した芸術作品を鑑賞しているような心地よい緊張を覚える。やはり本当に丁寧に服をつくっているのだな、という、あまりにも当然で簡潔な感想を抱きながら何枚か写真を撮影した。タグにつけられた台紙には、海面のようなインクの青文字で、服の完成にまつわる物語が綴られている。たいていの本に物語があるように、ここでは服に物語がある。

 ここから先は僕のごく勝手で個人的な想像なのだけれど、2人はここで服をつくることで、自分たちがどのような人間なのかということを表明しているのではないかと思う。声高な宣告ではなく、あくまで控えめな所作と大胆な感性をもって。ここでつくられた服をみればみるほど、それは心地良く閉ざされたこの土地を切り拓いて繊細な手仕事で服を生み出しつづけている〈スクランプシャス〉の生き進め方そのもののように思えてくるのだ(この日、ヤンさんとノンさんに初めてお会いしたのにも関わらず、僕はこのような文章を書いている)。

 服を鑑賞しながらも、気がつけば2人の人間としてのあり方のほうに強く惹かれている自分がいることに驚いた。なんというか、2人がここで暮らしながら自分たちが大切にすべきものを淡々とつくりつづけているという事実が、まわりまわって僕にとっての1つの救いのようなものになっている。それはなんだか不思議なことのように思える。どうして他人の生きている様子を目の当たりにして、別な人間が救われるというのだろう。しかし、それがその時僕の感じた純粋な心の動きであることは間違いがなかった。

 1ついえることがあるとすれば、おそらく2人は自分たちのペースというのを何よりも大切にしているし、自分たちのペースが何によって形づくられるのか、また破壊される恐れがあるのかということを深く知っているように思えるということだ。その理解がどのようなプロセスを経て育まれたのか、ここ(真鶴)へ来る前からあったものなのか、僕にはわからない。それは僕がまだ完全には習得できていないものであり、この先で習得していきたいものの1つなのだ。


 この町に移ってきてから、僕は自分の身体に合う乗り物を探しはじめている。それは(比喩的にいえば)、自分に合った速度とペース配分で、比較的長い年月を健康的に走行することができる乗り物だ。もっともらしく訳すと〈生き方の指針〉みたいなことになるかもしれない(しかし、こちらの言葉が示す範囲はあまりに広く、なんとなく実感に乏しいように思われて、僕は〈乗り物〉という言葉を使いはじめることになる)。

 〈乗り物〉という言葉をみつけたのは最近のことだったが、実のところ僕はずっと前から無意識的にその乗り物を探していたらしいということに、このあいだ気がついた。おそらく真鶴という新たな土地が、僕の意識を静かに開き、意識の組成のようなものを次々に並べかえていったのだ。そのせいで僕は以前よりもあらゆることへ自覚的になりはじめている。だから僕は今乗り物を探している。暮らしという波の上に浮かびながら心地良く世の中を進んでいくための乗り物、あるいは航海システムのような存在を自分のなかに打ち立てようとしている。それはどんな形であってもかまわない。車輪がついていてもいいし、翼が4本ついていたっていい。丸木舟みたいにただ木をくり抜いただけの姿でもいい。ただ僕の身体にしっくりきて、十全に乗りこなすことができればいい。しかし、それはなかなか一筋縄では見つけることができないし、難しい課題だという実感があった。僕は時間を味方につけなくてはならない。

 そのような考えごとをしていた最中に、〈スクランプシャス〉の2人に出会って、何か少し視界がひらけたような気がした。どうやらタイミングというものに関して、僕の人生はそれなりの寵愛を受けているようなのだ。2人の暮らしに触れたことで、僕の頭のなかに1つ、乗り物のイメージが鮮やかに立ち上がり、その立ち上がりが起こったことで僕は以前とはほんの少し様相の異なる人間になったのだと思う。あるいは僕の進んでいきたい方向には、〈スクランプシャス〉という1つの灯火があるのかもしれない。まだ花のないアジサイの茂みをかき分けながら、そんなことを考える。

vol.18につづく

ヤンさんの持つ〈海の泡のドレス〉


P.S.:〈スクランプシャス〉へ訪れた後も、真鶴カメラのスケジュールはつづき、その次はウエットスーツ屋の〈UGO〉さんのところへ行った。当然ここでも面白い出会いがあったのだが、あいにく僕が限られた文字数のなかで書きたいことを整理するだけの柔軟性を持ち合わせていないために、今回ここに全てを書くことが叶わなかった。また別の機会に書くかもしれない。




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