見出し画像

海のまちに暮らす vol.27|人を小馬鹿にしたような可愛らしい響き

〈前回までのあらすじ〉ごく平凡な1日の進行について、①から⑩まで取り上げています(他にもっと書くべきものごとがあるような気がするのだけれど)。

 この季節になると、月に2、3度くらいの回数であまり食欲のない朝があり、そういう朝はキュウリを水で洗う。断面に味噌をつけてかじる。これが思いのほかあごを使う運動で、(自分でも預かり知らぬうちに)あごの疲れが夏の季語にノミネートされた。ぼり、ぼり。

 せっかくなので味噌の話をする。僕はことあるごとに味噌を消費するので、それなりに大きなパッケージに入った味噌であっても、1ヶ月あまりで使い切ってしまう。そのたびにスーパーで仙台味噌を買っている。仙台味噌というのは、〈仙台藩初代藩主伊達政宗が仙台城下に設置した御塩噌蔵と呼ばれる味噌醸造所で作らせた味噌〉にならって製造されている味噌のことらしい。風味が良くて甘辛く、そのまま食べられることから、「なめみそ」とも呼ばれているみたいです。なめみそ、ってなんだか人を小馬鹿にしたような可愛らしい響きですね。小学生が下校途中に友達でふざけ合って叫んでいそうで。
「よっちゃんのバカ、あほ、なめみそ──!」

 僕の生活において、もっとも頻度の高い味噌消費の営みは〈夏野菜こってり炒め〉で、これは〈ナスの鍋しぎ〉という野菜料理をボリュームアップしたものになる。簡単で手軽なメニューなのだ。⑴ナスとピーマンに豚肉を合わせ、全体にまんべんなく油が回るように炒める。⑵そこへ砂糖・みりん・味噌で味をつけ、刻んだ紫蘇を混ぜる。完成。

 畑でナスや紫蘇が採れるので、〈夏野菜こってり炒め〉は首尾よく野菜(と味噌)を消費するのに一役買っている。大変優れた一品おかずである。

 そういえば、いつかの『暮しの手帖』に自家製味噌についての記事が出ていた(何月かは忘れてしまったけれど)。図書館のカウンタでその号をパラパラとめくった記憶がある。写真家の男性がつくる自家製味噌。その様子が取材された特集のようなものだった気がする。〈このとき仕込んだ味噌の量は、なんと50kg!〉、と書いてあってちょっとびっくりした。50kgの自家製味噌。

 自家製、という枕詞もあいまって、それはいささか現実から跳躍した世界の話のように思えてくるし、その様子を正しく想像するのはことのほか難しい。どれほど懸命に〈50kgの自家製味噌〉、というイメージを頭の中に描こうとしても、それが具体的な映像として結実する前に何者かが現れて、せっかく育てたイメージをどこか別の暗がり──妄想能力のブラインドスポットのような場所──へ巧妙に持ち去ってしまう。

 あるいは、そのイメージには半透明の曇ったフィルムがかけられていて、向こう側にぼんやりと存在している〈50kgの自家製味噌〉の姿をきちんと見定めることができない。苦労してフィルムを引き剥がすと、はたしてそこにあるのは〈50kgの自家製味噌〉ではなく、〈50kgの土〉であったり、〈50kgの馬糞〉であったりした。もっと手早くイメージができる別のものに置き換わってしまうのだ。そのせいで、僕の想像は穴のあいたプラスチックカップへ注がれるジンジャエールみたいに一向に満たされることがない。一旦落ち着いたらいい、と僕は思う。少なくとも50kg、重量としての50kgがどのくらいであるか、そのイメージに関してはある程度くっきりと思い浮かべることができるじゃないか。そして味噌そのものを想像することも難しくない。1+1=2、基本条件は揃っている。

 しかし、何度試してみても〈50kgの自家製味噌〉が僕の脳内に映像として形作られることはなかった。それはどうやら僕の手には負えないような代物だった。もちろん、それについて誰かが僕を責め立てることはないし、〈50kgの自家製味噌〉を正確に想像してみせる必要は(僕のどのような人生の局面においても)ない。

 僕は静かに雑誌を閉じて、それを一般誌書架の奥の方へしまった。僕が日々使っている仙台味噌は750gで販売されている。


vol.28につづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?