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海のまちに暮らす vol.28|知らない草探しの会

〈前回までのあらすじ〉
味噌のもたらす生活を書いて、日々の妄想能力の分水嶺を探そう、という回。

 どうしてこんな形になってしまったのだろう、と考えずにはいられないものがずいぶんあるような気がする。自分の足先に並んだ爪の形や、錦鯉の鼻の穴などをみるたびにそう思う。一体どうしてここにこんなものがあるのだろう。

 同じような興味の理由で、つい花をみてしまう。形や色に特徴があって目を引くし、わりとあちこちに咲いている。人が暮らしている町では花のライフスタイルにも多様性がある。鉢植えに入って玄関先で大切に育てられているペチュニア、乾いた石垣から上へ伸びるヒメジョオン、車道脇にぶら下がるヤマグワ、畑の土に淡い影を落とすセージ──。花の暮らしにもいろいろある。でも花は生きてゆく場所を自分で選ぶことができないから少しかわいそうなのかもしれない(僕はごく自然に花の自由意志を考えることになる)。それでも、と僕は思う。僕には行きたい場所がいくつかあるのだけれど、そのいくつかの場所に未だに行くことができていない。選びたいものを選ぶことができない場合もある。

 花の写真を撮ることが控えめな習慣として定着したのは、もうずっと前のことになる。それから長いこと習慣はつづいていて、特に何の役にも立っていない。足を止め/軽くかがみ込んで/パシャリ、それだけ。

 特別な意匠のないその習慣は、iPhoneカメラロールを有機的な色彩で埋めてゆく。赤・白・赤・白・白・青。ディスプレイは3列のデジタル・グリッドが敷かれた美しいプロムナードになる。どうか花の名前のことは尋ねないでください。花の名前をあまりよく知らない。

 集めた花の写真を眺めていると、不思議と妙な気持ちになる。やたら艶やかで上質なカーテンレースみたいな花弁や、組み立て途中で放り出されたプロペラ機のパーツを彷彿とさせるビビッドな萼片なんかをみていると、それらはどこかの誰かが作業途中で置き忘れていった何かの部品なのではないかと思うこともある。あるいは異なった文化的出自を持つ個人個人の整列を上から見渡しているような気分になる。南国の植物園に行った時も同じような心境になった。あれは何なのだろう。植物は時間が経つとしおれてゆく。水分を失い、土壌の一部になる。限定された時間性の中に姿を保っている。僕は写真を撮る。パシャリ。

 花というものを見飽きることがない。僕は外を歩く。写真は増えてゆく。この習慣を何と名付けよう。つい、やってしまう習慣のこと。



知らない草探しの会 ー unknown plants observation 


vol.29につづく


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