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海のまちに暮らす vol.33|かの犬がたちあげる、ない町

〈前回までのあらすじ〉
友人はとても小さな小さな人をみた/8月の夜中に、2人港へまっすぐ降りる



(文章を書くことについて僕が想うのは、やっぱり、今まさに起きていることよりも、もう失われてしまったものごとのほうにいくらかの作用点があるのだろうということだ。なので少し前の話を書く)




 西武沿線に住んでいた時に通っていた古本屋のことをたまに思い出す。その頃僕は6畳のアパートに住んでいて、おそらく店の敷地も同じくらいだった。中年の女性が個人でやっている店らしく、彼女はいつも入って右奥のちゃぶ台のあたりに座っていた。ちゃぶ台には簡易なレジが置いてあった。


 さて、そこには小さな犬がいて、店主と共に暮らしていた。栗毛の巻き立つ人形みたいな小型のプードル犬である(プードルというのは成長するとわりに大きくなるそうなので、おそらくこれは別な個体との雑種かもしれない)。

 自宅と店を兼ねているということもあり、犬は店内を自由に歩くことを許されていた。同じ書架の周りをぐるぐると回り、首から下げたリードを引きずったまま僕の股下を通り抜けていった。しかしなにしろこじんまりした店なので、客が一人でも入ろうものならもはや手狭になってしまう。僕はこのやわらかい胴体を何度か靴でつぶしてしまいそうになった。

 また別の日は、入口のガラス戸の内側に姿勢良く位置どり、往来をゆく人々に向かってコンパクトに吠えたりする。気を惹かれた客がガラス戸を押して店へ入ると、犬はさっと押し黙ってするすると店内奥のほうへ引き下がってゆく。客寄せを心得た賢い犬でもあった。


 少なくとも、僕はその小さい犬に心奪われていたこともあって頻繁に店へ行った。黴臭い書架の山間で息をしながら、いくらかの本を開き、はらはらとめくりながら、足元に現れる茶色い毛の塊のことを想っていた気がする。しばらく通うと、犬はもう僕にはじめのような愛想を振りまかなくなった。店先でこちらに吠えることもなくなった。そのうちに風が冷たくなってダウンコートをおろした。

 感染症と社会体制が町から町を徐々に閉め出してゆき、まもなくその店にもシャッターがおろされた。僕は毎晩、砂色のシャターが風にあおられる耳障りな音の傍を家へ急いだ。そうして雪のない東京にも雪解けの季節がやってくる。下町の商店街通りにも陽だまりが増えはじめる。シャッターが上がるのを待たずして、その春僕は東京を出てしまう。






 あの犬はどうなったのか、僕は知らない。出先で小さな犬をみると僕はあの町のいくらかを思い出す。



vol.34につづく

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