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海のまちに暮らす vol.15|墓地はその地でもっとも眺めの良い場所に用意されている

〈前回までのあらすじ〉
草を倒し、土を巻き上げ、畑がはじまった。荒地と草原を足して2で割ったようなこの土地は、可能性という伸びしろだけはふんだんに残しているのだった。

 来る夏を迎え撃ち、ぎゃふんと言わせるためにエアコンを設置することにした。作業が済んだのは午前11時で、スマートフォンの天気予報アプリは22度の最高気温を示している。外はまさに簡易版の真夏日というような陽気で、寝室から覗く海はブルーのセロファンシートのように煌びやかな点滅を繰り返していた。

 これまで海に行くといえば、わざわざ朝から電車に乗ったり、決して短いとはいえない距離を歩いて移動しなければならなかった。僕は海と対面するために何かしらのコスト(対価)のようなものを支払う必要があった。でもここに住みはじめてからは、わりに簡単に海を観にいくことができる。ちょっと思い立てば青い水平線を拝むことができてしまう。それは僕にとって少なからず意外な日常であるように思えた。本来海はもっとずっと遠くの場所に、自分の生活圏とは一線を画して横たわっているものだという感覚があったのだ。とにかく、今では海はもうそこにいる。僕は海に会いにいくことができる。ごく当たり前に。もっとも海にとっては、僕が観に来ようが来まいが大して変わりはないのかもしれないが。

 僕の生活圏は主に真鶴町内だったが、家から一番近い海は真鶴港でも岩海岸(vol.6で訪れた)でもなく、福浦港だった。福浦港は真鶴の隣町、湯河原に佇む静かな漁港。こじんまりとした堤防に囲われた地方港湾といった様子で、停泊している船の数はそこまで多くない。いわゆる観光用のビーチとは異なった、個人的で実用的な海。とはいっても透明度の高い海は目が覚めるようなエメラルドグリーンだったし、カラフルな魚影もちらほら確認できた。周囲の海には遮るものが何もなく、その景観はあらゆるものから解放されていた。ここは人間のための海ではなく、海のための海なのだ。海が海としてあるための海のありかたをしている。この海で生活をしている人たちは、海が海であることを尊重しているようにみえる。あくまで、海の成り立ちを変えることなく、その営みの隙間を縫うようにして船を走らせ、網をおろしている。基本的には音のない港だが、朝から日中にかけてはいくつかの漁船が出たり入ったりするようで、その時刻が来ると小さな港は一時的に穏やかなにぎわいをみせた。

 特にすることもないので、入江を挟んで向かい側にある外防波堤まで歩いていった。男の人が釣り糸を垂らしている。ネイビーの折りたたみ椅子が足元に転がり、隣に置いた保冷バッグからは鮮やかな桃色をした撒き餌が覗いていた。
「メジナを狙ってる」
 と男の人は言って、プラスチック製の柄杓のようなもので器用に撒き餌を掬い、しなりを効かせてそれを遠くの海面に投げ込んだ。とぼん、という音がして海中に桃色の花が咲く。僕はその斜め後ろから覗き込むようにして目を凝らしている。外海より波が落ち着いているとはいえ、緩やかな風に撫でられて海面は小刻みに震えている。その透き通った水の震えを僕は凝視している。透明さの奥にひらめく生物の気配を探しながら。海は地上からの光を跳ね返して揺れ、チラチラと光る。まだ粉のかけられていないわらび餅みたいに内側に光源を隠し持っている。次第に目が慣れてくると、僕はその複雑なゆらめきの中に赤や黄色の動くものの姿を認められるようになった。それは摩天楼から落としたハンカチを思わせるリズムで、ひらりらりと水の世界で踊る。桃色の撒き餌の煙の中をくぐったり避けたりしながら、身をくねらせてたゆたう。

「ベラもいる」
 と男の人は独りでつぶやくように言い、ドラグ(リールに付いた機構)を少し緩めたみたいだった。気がつけば結構な数の魚が、餌につられて集まりはじめていた。しかし海面近くに集まったそれらの魚種は、釣り人にとって歓迎すべき類のものではないらしく、彼は首を振り、手際よくリールを巻いてから再び遠くに針を投げ直した。竿先の金具が空気を裂いて鋭い音をたてた。

 僕は歩いて堤防の先端まで行き、足場がなくなるギリギリのところでしゃがみ込み、サコッシュに入れてある水を飲んだ。行きにコンビニで買ったエビアンは冷めたお湯みたいに生ぬるくなっていた。遠くの海面に真っ白なフェリーが浮いている。あの船は一生懸命に海の上を移動している。けれどあまりにも距離が遠いから、それは小さく止まった点にしかみえない。たぶんあの船のデッキからみた僕も、そもそも存在も確認できないくらい微小な色の粒になっているのだろう(僕は身長が178センチメートルしかない)。

 そのまま港をぐるりと一周して帰ろうとしたら、裏手の山へ続く細い登り階段をみつけた。穏やかなこの港の印象をさらにもう一段ひっそりとさせたような、淡い石段を僕は登ってゆく。石段はところどころひび割れてはいたが、寂れた様子もなく、あたりの草も適度に刈りそろえられていた。おそらく誰かが手入れをしているのだろう。パタン、パタンとサンダルの足音が誰かの拍手みたいに反響する。頭上では太陽が静かに燃えている。上まで登るとそこは霊園だった。

 ずいぶんと高いところまで来たのだと思う。足元に視線を落としながら石段を登っていたせいで気が付かなかったが、周囲を見回すと墓石がずらりと並べられていた。どれもきちんと整えられ、各人の沈静な眠りを象徴するような寡黙さで佇んでいる。背後を振り返ると眼下には福浦港が見え(僕はついさっきまでそこにいた)、その後ろには目を見張るような海岸線が視界の許す限りどこまでも続いていた。熱海から伊東にかけての陸地の連なりだ。そのまま辿っていくと伊豆や下田にもつながるだろう。今、僕の持つ視界のほとんどは、限りなく平坦で完全な海原で占められている。こんなにも近くて高いところから海岸線を見下ろしたことはない。本来ならば波として感じるはずの海面の起伏は、抑揚のないテクスチャとしてリアリティを欠いたまま平べったく存在している。その海面はまるで青い午後の校庭の砂地みたいだ。平坦でザラザラとした平面的な水が、霞みがかった5月の地表を覆っていた。

 「墓地はその地でもっとも眺めの良い場所に用意されている」というのを以前どこかで耳にした。なるほどたしかに特等の場所だ。こんなにも静かで眺めの良い場所に供養されたら、かえって恐縮してしまうかもしれない。もし高所恐怖症の魂なんかがいたら、あまりの景色の開け具合に肝を冷やすだろう(一度死んだにもかかわらず)。そのような事情を差し置いても、ここは僕の知るうちでもっとも景色のすばらしい場所の1つに違いなかった。港の裏に小高く隠された天上の霊園。こんな場所はなかなかない。でもここに眠る死者たちがうらやましいかと聞かれるとそんな風でもなく、自分は例え死んでも墓石には収まりたくないなどと小生意気なことを考えていた。

 霊園の小道は上までいって途切れるわけではなく、そのまま高台の住宅地へとつづいていた。僕はその順路(そんなものがあるのかはわからない)に沿って奥へ進み、日当たりの良い迷路のような小径を抜けて家まで帰った。

 帰宅してすぐに部屋の窓をすべて開け放ち、この木造建築全体にまんべんなく風を通す。風通しについて、この家は比較的恵まれていると言える。窓の数の多さとその面積の大きさによって、いとも簡単にあちこちに隙間をつくることができるのだ。今この家を水に浮かべたら、真っ先にぶくぶくと沈んでいくにちがいない。そのくらいすかすかしている。しかしどのようにして家を水辺まで持っていけばいいのかわからないため、空虚な妄想はそこで途絶えることになった。

 冷蔵庫に中玉のトマトがあったのを思い出し、包丁で縦半分に切って皿に乗せる。その断面に塩をふり、かぶりつく。今日は申し分のない1日だったと思う(思うに1日というのは絶対評価なのであるから、昨日や一昨日と比較してはならない)。開いた窓から福浦の方向に顔を出す。ここからみると、霊園のあるあたりはすっかり山がちで、墓石の気配はおろか、家さえあまりみえない。あるはずのものを、緑の樹木が巧妙に覆い隠しているせいで、あの霊園が本当にあったのかどうか、僕はにわかに判別できなくなる。仕方がない。ここは本来あるはずのものがなかったり、ないはずのものがあったりする微妙な世界なのだ。しかし少なくとも、僕はそういう曖昧で幽玄な魂の置き所を、この世界に1つ知っている。


vol.16につづく



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