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海のまちに暮らす vol.29|あまりに大きなマグカップなので

〈前回までのあらすじ〉
花の写真を撮ることが控えめな習慣として定着したのは、もうずっと前のことになる。それから長いこと習慣はつづいていて、特に何の役にも立っていない。

 実家へ帰るために改札を通過する。真鶴から走り出した東海道線の車列は根府川あたりで広大な海の脇を横切ることになる。ほんの一瞬のあいだ、民家も車道もなく、果てしなく横に長い相模湾が車窓に展開される30秒がある。軋むレールを見下ろすと、線路に敷かれた玉砂利の向こう側にはもう何も存在していなくて、ただただ青い水のたまりが巨大なスクリーンとなって立ちはだかる。

 目を細めると水平線の向こうにかすかに陸のようなものが見える時もあるのだけれど、ほとんど霞んでしまっていて実態があるのかわからない。半透明な対岸はまるで死んだ動物が静かに横たわっているようにもみえる。このあたりを通過するとき、僕はいつもマグカップのことを思い浮かべる。巨大なマグカップの縁に沿って延々と走る15両編成の電車のことを。

 あまりに大きなマグカップなので、僕らは真っ直ぐ目的地に向かって走っているようでいて、同じ円弧の周りを長い時間をかけて1周していることになる。とても高いところから俯瞰的に見下ろしてみない限り、そんなことはわからない。電車はどこまで走っても元の場所に戻ってくる。どこへも辿り着くことがない。

 カップの中へ注がれているのは真っ青な海で、電車は右手に広大な水面を望みながら相変わらずの速度で進み続けている。水上のはるか先には、陸地を思わせる微かな輪郭があり、走る電車の中で僕はあれこれと想像を巡らせる。でも実際のところ、それは新しい陸地などではなく、反対側に見える巨大なマグカップの縁にすぎないのだ。そんなことには気がつかないまま電車はなおも周りつづける。陶製のマグカップはカタカタと音を立てる。乾杯。

 それから小田原を過ぎて、大船に着く頃にはもう少し現実に即した頭の働きを取り戻している。現実というのは──時間、共同体、約束、栄養バランスなどがある世界のことです。僕は電車をここで乗り換える。

 最近また詩を書くようになった。詩を紙に書いて、人が読むことのできるかたちで書くようになった。日常を生活していて僕は、本当にどうでもいいことをたくさん理解しようとしてしまうようなので、そういうものを1つ1つ受け入れていくために言葉を探したり、読んだりしている。うまく片付けておくことのできない感情には頭の中で名前を与えていて、それはたぶん詩である、と他人の書いた詩を読んでいるときに思った。やっぱり毎日忙しいと、なかなかそういうことにも気がつけないまま立派になっていってしまうので、あまり偉くなりすぎないようにしようと考えています。

 郊外でバスを降りると、浅い小川の中に人差し指くらいの魚がいっぱい群れていて、石を投げ入れたら騒がしくなった。その様子をみて、魚が慌てていると感じる人と、盛り上がっていると感じる人がいるのだと思うと少し、面白い。


vol.30につづく

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