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海のまちに暮らす vol.18|1人きりで無人島へ流れ着いたら、はじめに何をつくるか

〈前回までのあらすじ〉
海を見下ろす森林のアトリエを訪れた日を境に、僕は僕のなかにいろいろなものが生まれはじめたような気がしている。暮らしはつづく。

 浅草で仕事があったので早々に家を出る。水曜午前7時台の東海道線内には明らかにおかしな量の人間が詰め込まれていて、それは「ショートコント〈この世の終わり〉」と呟いてから乗車したほうが良いのではないかと思えるほど、この世の終わりみたいな有様になる。一体どうしてこれほどの数の人間を毎朝東京へ送り込まなければならないのだろう。どうしてこんな民族大移動の予行演習みたいなものを義理がたく繰り返さなくてはならないのだろう? それほどの犠牲を払ってまで到達すべき場所なのか、正直にいって僕には今ひとつ呑み込めないところがある。あるいは僕の想像も及ばないようなのっぴきならない事情があるのかもしれない。当然そんなことを気に留めるような存在は(車内の顔ぶれを見回す限り)いないようだったし、彼らは関心のほとんどをスマートフォン・ディスプレイの向こう側に突き立てているようだった。そうでない者はついさっき表情を誰かに売り渡してきてしまいました、とでも言えるほど色のない顔をしていた。

 乗り換え地点の上野までは実に120分かかる。リュックサックから文庫本を取り出して読む(『楡家の人々』北杜夫)。若いスーツ姿の男性が、その短く刈りそろえられた襟足から透明な汗のしずくを滴らせて、背広の上襟に濃紺のしみをつくりつづけている。その鮮やかな泉の広がりは否応なしに僕の視界へ入り込んでくる。ぽたり・ぽたり・ぽたり・ぽたりと、いやに規則正しく時間を区切りながら、正確さが売りのメトロノームみたいに時を分断していく。

 したたり落ちるための水分はまだ彼の頭部に潤沢に残っているのだろう。そのしたたりは連続性を失うことなく、止む気配もなく、誰かに見られることを待ち望んでいるようにみえる。その誰かとは僕のことかもしれないと思う。この電車の中でそれを正確に目撃することができるのは僕の他にいないのだから。僕はあえて視線を低いところに集め、本に植えられた活字の列を目で追うことに意識を向けていこうとする。しかし、集中を試みれば試みるほど意識は小さく分裂を繰り返してゆき、最終的にはそれぞれが微小な粒になってしまう。そうなるともう意識は何の役にも立たなくなって、文字同士のつながりから意味を見出すことが難しくなる。意味というものを失ってしまえば、文字というのは美しいフォルムをした虫の死骸みたいにみえる。僕は几帳面に並べられた死骸の上を撫でるように行ったり来たりするだけの軽薄な存在になる。ページの同じところを何度も辿ったまま、どこにも行くことができない。

 仕事は昼過ぎに終わった。その現場で僕はある人同士のあいだに交わされる会話を熱心に聴きとめ、その応酬の下に流れる通奏低音のようなものを読み取って一連の物語(テキスト)に組み替えていく。それは集中力を必要とする作業だった。僕はその会話のなかで扱われる情報の一切を一度に引き受けてから、慎重に選り分けゆく。慎重に、体系的に、感覚的に。山頂に注いだ雨水が一筋の流れとなり、徐々に勢いを増して下流へつづいてゆくような音楽性がそこには求められている(と僕は思っている)。とにかく仕事は済んだ。午後の山手線は蒸し暑く、それは〈常に急いで移動しつづけなければならない刑〉を言い渡された囚人のように終わりのない周回をつづけている。回りつづけることで、こもった東京都地表付近の空気をかき混ぜているのだ、たぶん。

 夕方に大学の同級の友だちに会い、神保町あたりで適当な店に入った。僕は彼女に学内に関する細々としたことを尋ねた。大学の事務的な情報に関して、休学している僕の身には大幅な断絶が起きていたようだった。その後は内容のない会話をした。覚えているものをここに挙げる。両者の人格的特性によるものなのかはわからないが、この手の会話というものは唐突に本質に入り込み、振り返りもせずに通り抜けていくような混沌としたものになる(そうした無秩序な散乱を、僕はそれなりに好んでもいる)。

〈1人きりで無人島へ流れ着いたら、はじめに何をつくるか〉という話(あまりにもよくある前提)のなかで彼女がまず考えたのは、〈自らが着る服をつくる〉ということだった。しかしその後で、裸の自分を見る他人が島には誰1人存在していないことに気がついたらしい。前提として、ここは無人島なのだ。誰からも目撃されることのない自らの裸を覆うために衣服をこしらえる必要があるのか、その恥じらいは一体どこから生じるものなのか、それが彼女による一連の興味事項であるらしかった。

「それなのに私ってば服をつくろうと思っちゃったの、おそろしいよね」と彼女は言う。たぶんここでいうおそろしさとは、服をつくろうとした彼女の個人的判断に対するものではなく、同じような発想をする人間があちこちにいて、おそらくはその常識的な選択がメジャーであることに対して発せられたものなのだろうと僕は思う。僕らの意識は知らないあいだに何者かに飼い慣らされているのかもしれないし、その巨大な飼い主の姿を視界におさめるためにはよっぽど遠い場所へ行ってみる必要があるのかもしれない──たとえば無人島のような。

 真鶴へ帰ってくる頃には夜10時をまわっていた。空は均一な暗さを保ったまま静止し、海面との間の境界を一時的に解消してしまっているようだったし、僕は人波に揉まれて焼かれる前のハンバーグみたいにぐったりしていた。満員の電車に乗るたびに少しずつ身体が平べったくなっていくような心地がする(40%は比喩的に、60%は物理的に)。5月から6月の初夏の時期にかけて何度か東京へ行くことになる。だから僕の身体は予定ではもう少しずつ押されて扁平になって帰ってくるだろうし、夏の陽に焼かれていよいよ本格的にハンバーグみたいになってしまうのではないかと心配している。それでも、今のところは元気にやっている。


vol.19につづく


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