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限りなく透明に近い不自由 吉田修一『パークライフ』感想

『パークライフ』は2002年に発表された小説だ。
作者は吉田修一氏。

これからこの作品の感想を書くけど、ネタバレがある。でもその「バレ」の部分は、僕はこう読んだ、であってちっとも正解ではないかもしれない。1つの読み方だと思ってほしい。

まずは僕の小説観から。

僕は小説には、主に2種類あると思っている。
1つ目は「人はどう生きるか」を問うもの。作品によっては、ちょっとイデオロギッシュだったりもする。もう1つはイデオロギッシュなにおいを遠ざけ、ページを開いている間にしか存在しない世界を描いたもの。こういう作品は何度も読み返したい。

吉田修一氏はほんとうに立派な作家だと思っている。『悪人』『怒り』といった「人はどう生きるか」を問う作品を幾つも書いている。イデオロギーの臭みなしに。
で、この「パークライフ」はどうかというと、うーん。どっちでもない。少なくとも2回読んだ時点の僕にとっては、ね。

『パークライフ』あらすじ

主人公の「僕」は都内のある会社に勤める若いサラリーマン。毎日のように日比谷公園に行く。ひょんなことから知り合った「彼女」と公園で待ち合わせする仲になるけど、よくある小説みたいに恋まで進展する訳じゃない。最後まで「僕」は「彼女」の名前すら知らないし。
「僕」の大学時代の先輩・瑞穂さんと夫の和博さんは離婚の危機で、マンションを空けている。「僕」は夫妻の飼っているサルの面倒を見るため、夫妻のマンションに住んでいる。代わりに、みたな形で「僕」の部屋には実家から東京へ遊びに来た母が住んでいる。
物語の縦軸になっているのは「僕」の高校時代の片思いの相手「ひかる」であり、「僕」はいまだに「ひかる」に恋をしている。物語中、「ひかる」は「僕」と1度電話するけれど、あとは「僕」の回想の中ばかりに出てくる。
「僕」と「彼女」で日比谷公園に来るちょっと変わったオジサンに勇気を出して話し掛けたり、「僕」が下着泥棒だという噂がおこったり、なんてエピソードはあるけれど、読み終わると最後まで事件らしい事件は起こらなかったという印象だ。まるで「僕」がどんな事件が起こっても、どれだけ「僕」の方から・あるいは相手から本音の話をしても、できるだけ人間関係の表面だけをなぞっていこうとしているみたいだ。

作品の表面だけ読めば、「人はどう暮らすか(生きるか、ではなく)」を描いた作品にも読めるだろう。2002年、日本に上陸して間もない(のか?)スターバックスでコーヒーを飲んで、東京の23区内に狭いながらも部屋を借り、なんだかキラキラした生活を送る。人間関係では、相手の望むことよりちょっと上の物をひょいと渡してあげる。主人公の「僕」が瑞穂さんにストロベリーアイスを渡す(文春文庫p.60)みたいに。そのコツは、さっきも書いたように、人間関係の表面だけをなぞっていこうとすること。スマートに泳いでいく、と言い換えてもいい。

でもそれだけじゃ人間、物足りないんだよね。たぶんね。
(僕なんかアマノジャクだから『パークライフ』の主人公の生活なんて全然ヤダ)

だから主人公の「僕」は何かをいつも求めているみたいに見える、読める。

「なんにも隠してることなんてないわよ。逆に…」

何かを求めたい、何でもいいから何かを。
そう思った時、でも求めに行こうと腰を上げたその人の中身が、スカスカの空っぽじゃ「何か」の正体が何なのか分からない。求めに行くつもりで立ち上がったのに、おなじ所をグルグル回っているだけだ。
「僕」と知り合いになった後で、「彼女」が彼女自身を含めてスターバックスに来る女性を、

「なんにも隠してることなんてないわよ。逆に、自分には隠すものもないってことを、必死になって隠そうとしてるんじゃないのかな」(p.45)

とバッサリ評するのは、そういうグルグル回る運動を言ったんだ。
「彼女」が他の女性客と違うのは、そんな自分に気づいているってことだ。聡明な「彼女」は、そんな自分に飽きてもいる。だからラストシーンで、「彼女」は自分の中に種を見つけて(あるいは前からあったはずの種に最近気づいて)、颯爽と人ごみの中へ歩き出す。

それじゃあ「僕」の中身はなんだろう。

「僕」は、自分の中と外にずいぶん大きな関心を持っている。
小説の始まりが、日比谷交差点の地下の断面図の想像、臓器移植の看板とつづく。表面に見える部分と中の部分がちがうんだ、というところから話は始まる。この関心は小説が進行する間もやむことがなくて、ダヴィンチの「人体解剖図」や雑貨店の人体模型の人形なんかにも「僕」の目は奪われる。「僕」が瑞穂さん夫婦のマンションに、「僕」の部屋に実家のお母さんが住むのも、中と外側の入れ替えのアナロジーだし。
じつは「僕」は、人から自分の中身を透かし見られることを、すごく恐れている。
もっとわかりやすく言うと、ある秘密を人に知られたくないんだね。
まあ、これは僕なりの読み方で、僕がそう感じた部分だけど。

限りなく透明に近い不自由

「僕」は高校生の時に失恋した。相手は同級生で同じバスケ部の「ひかる」という子だ。

その夏、勇気を振り絞って告白したのだが、どうしても恋愛対象として見ることができないと言われた。「弟にそっくりだから」という理由で、僕の告白は反古にされたのだ。
(p.29)

こう書いてあると「ひかる」という子が、ボーイッシュで可愛い女の子の姿で立ち現れる。でも「ひかる」が女の子だなんて、一言も小説の中には書いていない。

「ひかる」は男の子、「僕」はゲイ。

そう読んだ方が、この小説の全編がスッキリする。
その証拠(??)に「ひかる」が初登場する場面が、スティングのミュージックビデオに出演する老嬢が実はイギリスの男性作家だった、というエピソードの後なのだ。これはいわゆる「匂わせ」だ。と僕は読んでいる。「男女の入れ替えが行われますよ」というサインがここにある。
ちなみに、このエピソードを教えたのも「ひかる」だったりする。

「僕」の性志向というか性癖を描いたシーンもある。
「僕」が深夜の住宅街を散歩する。洗濯物のシャツが道に落ちていた。目の前のアパートの1階に洗濯物が干してあったから、この部屋の人のだろうと見当をつけ塀をまたぎ、外に置いてある洗濯機の上にシャツをたたんで置いた。知らない人の男物のシャツだ。
その時の描写を以下に引用する。

きちんとたたんだシャツを洗濯機の上に置くと、干しっぱなしになっている他のトレーナーやTシャツに目がいった。腕を伸ばすと、指先がアディダスの白いトレーナーの袖に触れる。トレーナーは物干し竿からすぐに取れそうだった。(p.66)

ちょっとしたイタズラ心と親切心で、見知らぬ男性の洗濯物をたたんであげようとする。
そう読めるように「僕」は言っているけど、まず「触りたい」という気持ちがあったから、洗濯物に触ったんじゃないのかな。だっていくらイタズラでも、ふつう、知らない人の敷地に入ってその洗濯物に触らないでしょ。

一人称小説の主人公には、嘘をつく人がいるんだ。その嘘と本当(といってもこっちもフィクションだけど)の間を行ったり来たりするのが、一人称小説の楽しい読み方だと僕は思っている。

だから「僕」はずいぶん用意周到にゲイであることを隠しているなあ、とゲイの僕は思うよ。
実家からやってくる母が、「僕」の部屋に置いてある飯島愛の「プラトニック・セックス」を勝手に読んでいる場面(p.78)がある。きわどい内容で一時期話題になった本みたいだね。「僕」は〝困ったことだ〟なんて顔しているけど、わざとオカンに見つかるように置いたんじゃないの?と思ってしまう。
「ひかる」への告白シーンだって、嘘がまざっているかもしれない。

そういう作為を、するどい人は嗅ぎつけてしまう。「ひかる」の話を「彼女」にした時、
「……ねえ、そのひかるって子、ほんとにいるの?」と言われてしまうんだ。ここでも「彼女が奇妙なことを言った」(p.71)なんて言って、「僕」はキョトンとした顔をつくろっているけど。

でもそれだけじゃ、息苦しいんだよね。
やっぱり、人に、というか誰かに知ってもらいたいって部分もあるんだよね。自分がゲイだってことを。

あからさまなカミングアウトはしなくても、なんとなく分かってくれる人がいないかなって、「僕」は探しているんだ。
カムアウトでもいいけど。(あ、これは僕?「僕」じゃなくて。ややこしいな)

「僕」は日比谷公園で毎日やっていることがある。ベンチに座ると顔を下げ、目を閉じ、深呼吸して、一気に顔を上げてから目をひらく。辺りの景色が「遠近を乱して反転し、一気に視界に飛び込んでくる」(p.12)。
軽いショックを楽しんでいる。
「僕」は、ゲイである「僕」を解放した時、そんな心地よいショックに包まれないかなって思っているんだ。

読み終わった後で、「僕」がんばってね、と思ったよ。だって『パークライフ』は青春小説だからね。


※僕が読んだ『パークライフ』は、文春文庫(2004年)です。
本文中のページ数は、それに依りました。

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