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【ショートショート】水蜜桃、食べた

若いというには相応しくない年齢を迎えようとして、それでもなお若者は充分に美しかった。
おのれがその年齢に差しかかっていることを、若者はよく弁えていた。
しかし美しく生まれついたことには、全く以って無頓着であった。
むしろおのれを醜いとすら、思い込んでいた。

乙女らが彼のかんばせを桃の花にたとえても、奇妙な戯れ事にしか聞こえなかった。思わせぶりな目つきで物陰に誘われると、気味の悪さに走って逃げた。
物心ついた時から、男ばかりをていた。
屋敷の高窓から、下衆の者たちが両肌もろはだを脱ぎあせくせ働くさまを見ていた。幼い彼は不意に、行ったこともない、だが確実に知っている遠い国から名前を呼ばれているような、懐かしさと焦燥のあい混ざった感覚に襲われた。
屋敷の塀を越え、おもての下衆たちの方へと桃の枝が伸びている。一人がよく熟れた実へ手を伸ばすと、幾人もが真似をする。桃泥棒。
小さな悪事を共有する卑しい笑顔を、羨んだ。口へ含まれるあの果実になりたいと願っていた。そう願う事とそう想像する事はひとつであって、心地よい痺れが幼い彼の肌を襲った。
だが、夢心地の空想にたゆたうのは僅かの間であった。一人の男が口から桃の種を噴き出す。もっとあの口の中にいたかったのに。それに続いて他の者たちも種を噴き出す。みな一様に屋敷の塀の一箇所を狙って、口から種を撃った。連中は単純な遊びに興じただけだったが、その眼には一種の陶酔があった。それが幼い彼を脅かした。何処かから呼ばれているような心地よい痺れを、下衆たちは見透かしたに違いなかった。
「ぼくって、きたない」
後悔の染みが、小さな胸にひんやりと広がっていく。
男同士の肉の悦楽を、忌むべき悪習と定めた時代と国であった。
下衆連中は新たな桃をもぎ取ると、今度は果肉を喰わずにすぐさま塀へ噴き捨てていた。刑場へ曳かれていく者へ石を打つ人々、それと同じ顔が塀の外に幾つも並んでいた。

重たい身体にし掛かられ、若者は恍惚としていた。
叔父が若者をねじ伏せ、脚を掴み、怒りに燃えているかのような男根で押し入り、敵に挑みかかる烈しさで奥処を繰り返し突いていた。
二人の暮らすまちからは、遠く離れた山里の陋屋であった。
今宵は、若者の婚礼の晩であった。

なかなか身を固めない若者に両親は業を煮やし、父の弟である叔父は二人を宥めすかした。
おれが良い嫁を見つけてくると請け合った。
若者には、手をとって話を聞いてやった。
その手の甲は叔父の手のひらを呼び寄せたように、ひたりと吸いついた。
二人は滾滾と湧き出て来るものを、気の遠くなるような嬉しさと絶望の中で感じ取っていた。
用意された道は、一本だけである。
その道を行くことは、虚偽で喉を詰まらせ、窒息するに等しかった。
退路もなかった。
道を逸れるしかなかった。
たとえ、逸れた先が崖であっても。

豊かなさとの豊かな家から輿入れした娘は、ヴェールをあげ若者の顔を見ることすら叶わなかった。
叔父が若者の手を引き、裏口から二人して逃げた。

星々が月のように明るかった。窓辺から外を眺めていた。
寝覚めした叔父が背後からそっと近づき、腕に若者をとじ込めた。
素肌で叔父の素肌を受け止めていた。ぎこちなさのない手の動きを、遊び慣れていると思っていた。
叔父もさぞかし自分をそのように見ているだろう。
今夜が幸福の絶頂であった。
叔父ではない男とそれなりの愉しみを密かに貪るのは、もううんざりだった。彼らは叔父の代わりに過ぎなかった。叔父にも、おのれより他の男を選んでほしくなかった。
しかしこの先、どのまちへ行けば、二人で身元を隠し続け、暮らしていけるのか。
幼い頃からおのれを呼び続けていた懐かしいくには、今宵、ここにあった。

流れ星にしては鮮明な明かりが、こちらへ向かってきた。
火の点いた矢であった。
幾本も向かって来る。
二人が寝静まっていた間に撒かれていた油が、威力を発した。
陋屋はたちまち燃えさかる掌の中にあった。
若者は向き直り、叔父をきつく抱いた。怖いものなど何もなかった。
叔父の眼は微かに揺らいでいたが、若者の力を感じると彼を強く見返した。
若者の身体が、奥より熱くなる。
炎よ、おれたち二人を取り囲むがいい。
おれたちはお前らの中で、生きるのだ。
叔父の唇が若者の唇をとらえる、若者がその唇をとらえなおす。二人は接吻を繰り返す。叔父の唇の中に若者がいて、若者の口の中に叔父がいた。このまま窒息してしまいたかった。

小枝を踏む音がするまで、僕はその樹を見上げていた。
「旅の方かな」
ふり返ると、この里の老人が立っていた。
「ええ、そうです」
とっさに愛想のいい顔をつくろった。
「立派な樹ですね」
「これは桃の樹だ、たわわに成っているだろ」
「ああ、ほんとうだ」
うまそうな桃が、何十、いや百を超える数で成り下がっている。
夕焼けのように色づいた桃は、今が食べごろだ。
「これも収穫して売るのですか」
このあたりは、農村地帯だった。
「いや。この桃は食べてはいけないのだ」
こんなにうまそうなのに。僕が少し驚くと、老人はこの樹の由来を語って聞かせた。

遠い昔、ある豪商の弟が美しい姪をかどわかして、この地に身を隠した。姪には婚約者がいた。婚約者の実家は追っ手を差し向け、隠れ家に火を点けた。二人は燃えさかる炎の中で抱き合って死んだ。亡骸はどういう訳か、いつまでも赫々と燻ぶり続けた。
その一塊を破り、生えたのが桃の樹であった。
禍々しく燻ぶった塊は根方の瘤と化し黒ずんでしまったが、祟りをおそれ樹を伐る者はいなかった。
実を食べる者も、一人もいなかった。

「桃を盗もうだなんて、けして思われるな」
立ち入りを拒む柵が、幹をぐるりと囲んでいた。
「食べたら呪われるぞ」
老人は疑り深い眼で僕を一瞥すると、踵を返した。
「はい。ご親切にありがとうございます」
軽く頭を下げておく。
老人の姿が見えなくなると、僕は舌を出した。
ずしりと重い桃を、パーカーの前ポケットから取り出す。
「もう、取っていたんだよね」
一口だけ齧った跡には、早くも甘そうな果汁がたっぷりとたまっていた。

桃を齧った時、数秒の幻が目の前に現れた。
知らない時代の古い民族衣装をまとった男が二人。手に手を取って石畳の路地裏を走っていた。
小窓から漏れた明かりが、二人を照らす。
宝石を見つけた海賊でも、こんなに輝く黒目はしない。

「呪いなんて、嘘だ」

桃の熟れた色を夕日のようだと思ったけれど、それにしては生々しい。
二人を燃やした炎。
そんな言葉が浮かんだ。
果汁をすする。
どこからか聞こえる、燃えさかる炎の音。
遠くでは、のどかに牛が尾を振っている。



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この小作品は、中村苑子氏の次の俳句にインスパイアを受けました。


桃のなか別の昔が夕焼けて   中村苑子


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