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インドの牛とベトナムのバイクが教えてくれた私の常識。

みんなが常識だと思っていることに対して、「こういう見方もできるんじゃない?」と言える人を、私は結構尊敬していたりする。

自分が考えていることを披露したいっていう自意識をおくびにも出さずに、押し付けがましくない感じでさらっと言える人なら尚更だ。


去年の10月、たまたま出張の機会を得て、人生で初めてのインドに降り立った。「インドって空港に着いた瞬間からカレーの匂いがするらしいよ」とある先輩が言っていたことはめちゃくちゃ嘘だったが、そんなことも言いたくなる気持ちがわかるくらい、(私にとって)インドはめちゃくちゃな国だった。(えっと、65%くらいは良い意味で)

インドがどんなに面白くて疲れる国なのかは、合計20日間しか滞在していない私でも軽く卒論くらいの字数で論じられるくらいだが、論文を読みたい人もいないだろうから、そのうち一つだけピックアップすることにする。

インド人の規範意識についてだ。
(主語が大きすぎて単純化しすぎたことを言っていると思われるかもしれないが、実際はその通り。この男はインドでたまたまそんなシーンに遭遇したんだな、くらいの気持ちで捉えてほしい。本当にインド人14億人がそうですかと問われたら堪ったもんじゃないし、たぶん違う)

まず、インドでは車線というものが全く機能していない。
インドでも日本と同じように、片側2車線以上の道路には白線が引かれていることが多い。道の両側には実線、真ん中には点線。
インドに降り立った23:00、ホテル手配のエアポートシャトルの窓から見える、心なしか薄暗い街灯に照らされる道路を見て思った。
「ああ、インド大陸といえどこういうところは一緒なんだなぁ」

その翌朝思い知った。線の引かれ方は同じでも、その認識は全く違うということを。

朝、Uberを手配し、インドのラッシュアワーに上司とオフィスへ向かった。
大通りに入って驚いた。片側2車線の道路に、並行して4車両が走っている。左からバイク、オート(こんなやつ→🛺)、我々のSUV、そして別のミニSUV。
当然車両の間隔は手が届きそうなくらい近く、両端のバイクとミニSUVに至っては白線を跨いで走っている。そしてその全車両がひっきりなしにクラクションを鳴らし、お互いに牽制し合っている。
(ちなみに、後ほど気づいたのだが、インドの車両、少なくとも私が利用したUberの全車両は、クラクションが親指一本でカチカチ押せるような仕様になっていた。おそろし)

道路を安全に、スムーズに使用させるためのルールとしての白線はほとんど形骸化していて、インドのドライバーは全くそれに従っていない。ほぼ全員がそれを生真面目に従うことに価値を見出していないのだ。我先にと進むせいで道がカオスになり、結局誰も早く進めていない感は否めないが、これがインドなんだと妙に納得した。(ちなみにちょっと田舎に行くと、道路には新たに牛と馬車が参加してくる。牛も馬も、もちろん白線を守るような仕様にはなっていない)

どこから突っ込めばいいのかわからない
本当にあちらこちらにいる牛たち

インドでの仕事を終えた後、数日だけ有休をいただいて別の都市を観光した。

国内線の搭乗時間、私は搭乗ゲートの前に行き、列の最後尾を探した。
「ない。どこにも。」

まだ案内もされていない人が我先にとゲートに殺到していて、もはや列なんて作られていなかった。空港職員さんが無理やり列を作らせても割り込みの嵐。しまいにはすべてのおじさんとおばさんが、自分の前だけには割り込みをさせまいと、その美味しいバターチキンカレーで膨れたお腹を前の客が背負う鞄に密着させ始めた。

まじか。

私も(割り込みなんて断固許せない心の小さい人間なので)負けじと前のおじさんとの距離を詰めながら思った。
みんながルールさえ守れば、こんなに心をすり減らして毎度全員と戦わなくてもいいのに。これじゃ万人の万人に対する闘争じゃないか。

しかも、恐らくそれをしんどいと感じているのはこの場では自分だけだということに余計心をすり減らし、疲労感たっぷりのまま観光を終え、帰国した。
奴らはルールをなんとも思っていない人たちだ、という穿った印象を持って。


インドから帰国してから約2ヶ月後の年末年始、今度はプライベートでベトナムのホーチミンを訪れていた。ホーチミンでは、現在ホーチミンで働いている大学の先輩であるSさんと夕食をとる約束をしていた。

その時の私は、東南アジアのカオスを楽しんでいたものの、例によって道路事情には疲れていた。何しろバイクが多すぎる。
ホーチミンは日本ほどの間隔で歩行者用信号が整備されているわけではないため、タイミングを見計らって車道を横断しないといけないシーンがよくあるのだが、この難易度が異常に高い。そこそこのスピードでやってくる車の間を縫って縦横無尽にバイクが走ってくるからだ。
私のような初心者は道路を横断するたびに、少なくとも2回は「あ、死ぬ」と思う。

信号を整備して、全員がルールに従って走れば、みんなが互いに駆け引きをしなくて済むのになぁ。

(余談ではあるが、私の中でのこのシーンでの暫定解は、「同時に渡りそうな現地民を見つけ、(車の進行方向から見て)3メートル後ろを歩く」だ。現地民はタイミングをよく心得ているし、もしタイミングを失敗していてもまず車両にぶつかるのは私ではないため、なんとかなる気がする)

久々に会った先輩とキンキンに冷えたビア・サイゴンを飲み、気が大きくなった私は、この疑問(というか鬱憤)をぶつけてみた。
「ホーチミンに限らずですけど、カオスなところに行くと、いやルール守れよって思うことないですか?みんながルールを守っていた方がコミュニケーションコストが圧倒的に低くてみんなハッピーじゃないですかね」と。

先輩は偉大だった。
「うんうん、確かにそう思うこともあるよね」と前置きしながら、さらっとこう続けた。
「でもさ、日本人がルールに異常に厳しいって考えることもできない?日本人ほど規範意識が高い国民ってあんまり多くないって考えると、こちらがちょっと変なのかもね」

目から鱗とはこのことかと思った。
それと同時に猛烈に恥ずかしくなった。「ルール守れよって思いません?」って言ってた時の私はきっと、さぞ自分が正義で悪を糾弾しているような、価値観が違う人たちを馬鹿にするような、いやーーな顔をしていたに違いないと思った。
普段お酒で顔が赤くならないことが急に恨めしくなった。お酒で顔が赤くなっていればごまかせたのに。


常識とはあやふやなものだ。
自分にとっての常識は、他のバックグラウンドを持つ人にとっては全く常識じゃなかったりする。

自分のコンフォートゾーンに居続ける限り、自分の常識を相対化することはできない。そしてその常識に慣れれば慣れるほど、その価値観に合わない人は無意識に下に見たり、攻撃したくなったりしてしまう。

私がいい例だ。
私は日本に生まれ育ち、ルールを遵守することがとても大事だと教わって生きてきた。なるべくみんなに迷惑をかけないように、世間様から後ろ指を指されないように、決められたルールや価値観には従って生きなさいと。

しかし、インドという多民族と多言語が共存している亜大陸に住む彼らにとっては、一定のルールは決めつつもある程度緩くまとまっている方が結果としてまとまりやすいということを、彼らは彼らの歴史の中で学んできたのかもしれない。

日本のような民族と言語のバリエーションが比較的少ない島国とは事情が違う。私の常識でもって彼らを測り、ルールを守らないから悪いと判断することはナンセンスなのだ。

反対に、別の価値観に触れた時に感じる違和感の大きさは、自分がどのくらいその価値観に縛られているのかということを気づかせてくれるバロメーターかもしれない。

先輩Sさんのおかげで、私は「規範意識」や「ルール必ず守るべしという価値観」をどれだけ自分が強く持っていた(持たされていた?)かに気づくことができた。

プライベートでも会社でも、もう少しゆるく構えていてもいいかもなぁ。


でも、と私は思う。自分の常識に気づくことと、それから脱却することは話が全然違うんだろうなぁ。

先輩の話を聞いてから、もう一度インドに行った自分を想像してみた。
想像の中での私はやっぱりイライラしまくり「あんたらの価値観は理解しようと頑張るけど、ちょっとはルール守れや!」と叫んでいた。

やっぱり、相変わらず自分の価値観にガッチガチに縛られている。

常識を相対化して考えられる人、そしてそれをこんな私に押し付けがましくなく(←ここ大事)教えてくれる人を、私はとっても尊敬している。


おわり。

2023.08.18 23:44
純米酒 会津中将 を飲みながら。

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