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「忙殺」され続けた私が4年越しに気づいた"歩く"という癒しの方法

想像できたか?

こんなにゆっくりと歩き、ぼーっとして、風の音を聞きながら、喧騒を逃れ、土を踏みしめることを。平日の真っ昼間に。

数年前、「忙殺」という言葉がぴったりだった私にとって、このような平穏はまさに信じられない事態だったと思う。例えば、4年前の自分に対して「4年後には平日の昼間に仕事もせず散歩を2〜3時間平気でやってのけるようになるんだよ、じつは」なんて言ったとしても多分信じられないって言うと思う。

「忙殺」という言葉がぴったりだった時代の私は、言葉にはしなかったけどこういう"平穏”みたいなのを心のどこかで求めていて。だって、平穏を望んでないと、あんなにぶっ倒れたりしないと思うから。

休むことが下手で、休み方も知らなかったけれど、時間的余裕と身体的余裕がちょっとばかしあれば、散歩という方法で自分を癒すことができる。あのとき願った、何もせずにボーッとする自分を叶えることができている。

だから、焦ることはない、責めることもない。「まあ、いいや(気持ちがいいし、今日は散歩すっか)」くらいの余裕をもてるようになったんだと思う。いいんだよ、だってやる気がでないんだもん。

かかとから歩いてみる。地面に「かかと落とし」をお見舞いする気持ちで。そうすると、小学校の頃、ランドセルを背負いながらそうやって歩いたことを思い出すんだ。一歩、一歩踏みしめて帰宅する。帰りたいわけじゃないし、特段帰りたくないわけでもない、毎日のルーティンのなかでの不思議な気持ちと対峙していた10歳ごろ。

とにかくゆっくり歩く、のことの大切さを思い知れば、ちょっとだけ生きやすくなる。

今度一人暮らしするタイミングがあったら猫を飼いますね!!