「死ぬときは自分が止まるときですから」

「死」について、人によってはまったく考えないテーマらしい。

今日取材で会った30代男性(接客業)に死ぬのが怖いと話をしてみたら、ぽかんとした顔をされた。同僚にお昼に行こうと誘ったら「今日お弁当を作ってきたので」と断られるくらい軽やかに、「死ぬときは自分が止まるときですから」と普通の表情で答えた。なんでそんなこと聞くんですか?くらいのかんじで。

私は30歳を迎えるのが怖くて怖くてたまらないのに、よくあなたはのうのうと30歳を迎え毎日毎日過ごしていられますねと言いたかったが言えなかった。え? 私が考えすぎなの? と自分のほうが異常だと思われた気がしてしまう。その能天気さがうらやましい。

カフェの長テーブルに座っていたらふたつ先の席の人がどすんと座ってその振動がコンマゼロ秒くらいのブランクで流れてくる。その振動にさえびくついてしまう自分は、当たり前のように「死」の大きな恐怖に対してもびくつく。私は余命宣告をされたわけでもないし、高齢者でもない。それでも、いきものには「死」が必ず訪れるという事実を受け入れることが今できない。

思春期のうちに経験するこの中二病的な思想に苛まれている。恐怖を表現すると、体中の血管がぞくぞくと波打っている感じがして、足元もふわふわ。頭に血がのぼるというよりも頭から血が下がっていくような。血は足元のほうへ下がり、でも心臓のポンプ機能のおかげで体を循環するけれど、その構造さえもふしぎでならない。

ちょっとした胃痛、飲みすぎたコーヒー、猫背でのタイピング、などはおそらく健康的には悪しき習慣だ。死にたくない私はそれをやめたいと思いつつ、やめられぬ意思の弱さも持っている。ああ、そうか。悶々と考えてしまう今日はなぜかっていつもしている時計を忘れたからか。

今度一人暮らしするタイミングがあったら猫を飼いますね!!