見出し画像

パワハラ野郎にはたらく自由を奪われた話

4年前、前職の出版社で倒れた。月初めの月曜日にはいつも朝礼があった。急に頭がふらっとして「やば、立っていられないかも」と思った瞬間、もう遅かった。床に突っ伏した私は意識はあるが、喋れない。

「大丈夫?」「動かなくていいからね」と話しかけてくるまわりの同僚たち。なんだ、お前ら普段は怒鳴り合っているくせに。こういうときはやさしく話しかけてくるんだな。30人もいないフロアで人がひとり倒れたというのに、ボスである局長は話をやめない。だから、私を誰も救えない。

毎月フロアで行われる朝礼は高圧的で、緊張感が張り巡らされていて、かといってボスの話は意味がなく、とても苦手だった。「俺がトップなんだから俺に従うのがあたりまえだからな?」というボスの権威確認の時間だったように思う。

朝礼だけではなく、日々の業務もすごかった。怒鳴り声が響くフロア。一瞬の気持ちの緩みは命取り。きちんと仕事をしているかどうかはいつもボスの監視下にあり、どんなに徹夜しても次の日の始業時間には席についていなければいけない。終わらない仕事量を与えられるが、残業は許されない。トップであるボスが作り出す「ミスが許されない現場の空気」に包まれ、まるで囚人のようにせかせかはたらいていたのが4年前の出版社時代。それでも私は本を作る仕事が好きだったから一生懸命だった。

結果からいうと、私は朝礼で倒れた日から半年後には会社をやめざるを得ない状況になってしまった。毎日倦怠感や吐き気を伴いながらも「本が好き」「自分の企画で書籍が作れる」という編集者マインドをモチベーションになんとか仕事はこなしていたが、ある朝、体が動かなくなった。気持ちはあるのに、体が言うことを聞かない。仕事は好きなのにはたらけない。

這ってでも会社に行こうとする私は夫に止められて正気に戻り、「ああ、これはもう無理なんだな」と悟った。体のHPが限りなく0に近い状況で、本当にお恥ずかしい話だけど、退職願を会社に提出しに行くことができず、当時の上司に家まで来てもらって退職願を渡した。無念すぎて三軒茶屋の喫茶店で泣きまくった。

あの悪しきボスは私の「はたらく」の自由を奪っていった。「暴力や威圧でしか人を動かすことのできない人間はきっと今後淘汰されていくと思う!」と今だったら思えるが、当時の若い私にとってはあの世界だけがすべて。「私はお前のところでなくとも、私には好きにはたらける権利があるぞ!」と今だったら思えるが、あの世界だけがすべてだった私にとって、退職とはこの世の終わりを指し示していた。

もっとも退職後につらかったのは、自分が成し遂げられなかった仕事に対する罪悪感だった。突然辞めたのだから、私が作っていた本は”担当者不在”になる。当然、十分な引き継ぎができなかったから、著者や編集チームは困惑する。体が動かない状況だったので、文字通り手も足も出ず、指示も出せず、ただ絶望に打ちひしがれることしかできなかった。本も、文字も、もう見たくない。そんな状況だった。

しばらく経って「自分が最後まで担当しきれなかった本」は編集部の誰かが引き継ぎ、本の形になった。申し訳なさから本に顔向けができず、本屋に行けなくなった。私のものだった仕事を誰かに盗られた気になり、自暴自棄に拍車がかかった。食いつなぐためにファミレスやコンビニでバイトをした。好きな仕事と関係のない仕事をするうちに、現場に戻りたいという気持ちが少しずつ芽生え始めていたが、「はたらく権利を奪われた」と思い込んでしまっていた私はどうすることもできず、毎日泣いていた。

退職から半年後、元上司から「フリーランスで本を作らない?」と誘いがあった。彼女は、私が会社に残してきた別の企画をボツにせず、残しておいてくれていた。諸悪の根源であるボスはまだ在籍していたが、「ボスとは関わらないようにサポートする」と心優しい上司たちに守られ、私は必死に本を作った。

あいつの監視下にある刑務所のようなフロアでは自由にはたらくことは叶わない。でも、ひとりで自由に、あいつの目の届かない場所なら、仕事のパフォーマンスを存分に発揮できる。呪縛から解き放たれ、吹っ切れた私は仕事をやりきった。それが、私のフリーランス人生の、「はたらく」のスタートになった。

あのとき、好きな仕事を好きと言えなくなった状況は、まるで底なし沼の底に突き落とされたようなものだった。なぜ、そこから這い上がれたのかは今でもわからない。でも、会社員を辞めてフリーランスで働く今、仕事との距離感・人との距離感を適度に保てている状況が心地いい。好きな仕事を好きなようにできている自分が誇らしい。

なにもひとつに固執する必要はない。はたらく自由は誰にだってある。

#はたらくを自由に  

今度一人暮らしするタイミングがあったら猫を飼いますね!!