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映画感想「CLOSE/クロース」・依存先と子どもの自立

※ネタバレしてます。ご注意ください。以下の画像以降から始まります。
※「怪物」「君の名前で僕を呼んで」『西の魔女が死んだ』の内容もちょこっと含んでます。

レオ

クィア、ホモソーシャル、親

まず、花農家の、わっと広がるカラフルな花畑の描写や、フランス映画らしいクローズアップの構図などによって、「美しい映像だった」という簡素な感想で終わらせられないように。思春期の危うさ、儚さを、“痛切な作品”して消費しないようにしたいと願いたい。私にとっては怖い映画だった。

レミとレオ


 同性同士の親密で特別な関係性、みたいな名前のない状況は、もしかしたら誰しもが幼い頃体験したことのあるありふれたものなのかもしれない。性は社会的なもの。男性像や女性像は社会的な概念に基づいてできているのだとすれば、本作みたく突然学校という多数がいる社会に放り込まれたとき、二人の世界は一変する。「オトコオンナ」と「付き合ってるの?」といきなり性別規範からなる悪意やからかいなどを言われたりすることで、レオはレミと距離を取り、ホモソーシャルな世界へ傾倒していく(レオのセクシャリティは言及されていないことを前提に)。サッカーやアイスホッケーなどスポーツから成る“男の絆”をもって、レオは自分が“正しく”あろうとし、レミを突き放したことで最悪なことが起きてしまう。誰か介入して止められなかったものか。

 是枝裕和の「怪物」では、親をも「怪物」として描かれていたが本作に登場する親は、うまく悲しめないレオにただ寄り添い、思想を押し付けず、ただそばにいる大人として描かれていたように思う。「君の名前で僕を呼んで」のエリオの親の寄り添い方に似ていて、何があってもあなたの味方でいるというメッセージに近い。兄も静かに寄り添い、レオをベッドで静かに抱きしめる。それはきっとレオの心の傷を治す一助になったはず。

 ただ、レミとレオの関係性においては、それでは遅かった。遅すぎた。物語の冒頭から良好な家族として描かれていたからなおさら。正しい大人の導きがあれば、この悲劇は起きなかったのではないかと思わずにはいられない。レミの死後、より一層ホモソーシャルな世界に身を置き、自らを痛めつけ、やっと骨折できたときに涙を流せたレオの本当の後悔を、周りの大人はどう解釈するのか。痛みによる後押しでしか、涙のわけを知ることができなかったレオの後悔を。この先もずっと後悔は残るし、自死によって親友(息子)を亡くした人生はこれからも続いていく。どうすればよかったのかを考えずにはいられなかった。

子どもの依存先を大人が自然に増やすこと

 農村の、二人だけの世界から別の世界(学校)に出たとき――レオはクラスの友達と適応し、(あまり良いとは言えないが)ホモソーシャルな結びつきから男友達と一緒に遊ぶ世界を知る。アイスホッケークラブに所属し熱中する。これは依存先が増えたということである。一方レミはといえば、依存先を増やせず"これまで通り"レオと一緒にいる時間を大切にしようとする。
 依存先を増やせなかったレミにとって世界のすべてだったレオに拒絶されることは、人生の終わりを意味してしまう。それが、最悪の悲劇を招くことになる。

 これはレミとレオだけではなく、私たちが成長する過程で誰しもが経験することだと思うのだけど、学校という閉塞的な特殊な場所にいると、そこでの終わりが人生の終わりだと思い込んでしまうのだ。だからこそ、依存先の多さが重要になってくるのではと考える。「Aでうまくいかなくても、Bに行けばいいや」と思えるちいさな余裕。
 
些細なことかもしれないが、代替えできる場所というのは人の心を支える意味を持つ。ひとつの場所に固執せず、別の依存先があると保険をはることで、だいぶ心は安定すると思うのだ。

 どうしたらレミが死なずに済んだかということを、この映画を観終わってからずっと考えていた。例えばわたしが親になったとき。子どもを死なせずに、自立させながら導く方法はあるか。
 例えば、少し遠くの習い事をさせる。夏の間だけ、サマースクールに通わせる。長期休みの間に、祖父母のところで暮らさせる。『西の魔女が死んだ』の主人公が、おばあちゃんちの田舎でしばらく暮らしたことが意味があったように、"今いる場所がすべてじゃないよ"というメッセージを伝えることが大事な気がする。そういう環境を整えてあげるのが、親が、おとなが唯一できることなのかなと思う。


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今度一人暮らしするタイミングがあったら猫を飼いますね!!