貧困―社長―NY移住―倒産破産―再起業
東京都世田谷区出身 杉並区在住
物心ついた時には、2階に向かう階段がギシギシと音を奏でる木造おんぼろアパートに住んでいた。風呂なし共同便所が普通だと思っていた。まさに漫画トキワ荘。いつも2歳違いの兄と留守番していた記憶しかない。
世田谷出身というと育ちのいいイメージがあるかもしれないけど、半世紀前の話とはいえ結構な貧困家庭だった。
小学生時代は子供ながらに友達の家の生活レベルの違いを感じていた。なぜうちは貧乏なんだろう?なぜ友達が持っているおもちゃ、ゲーム、漫画がないんだろう。
友達の誕生日会に呼ばれていった時にうちとの違いを感じた。部屋の数、テーブルいっぱいに所狭しと、並べられた美味しそうな料理。
お誕生日おめでとうのメッセージプレート、色とりどりのろうそくが立ったでっかいケーキ。
友達が持ち寄る誕生日プレゼントも違った。
包装紙に包まれた大きいプレゼント。それを次から次へとビリビリト音を響かせながらプレゼントを開ける友達は満面の笑顔。
自分が持って行った誕生日プレゼントをその場で開けられるのが嫌だった記憶がある。
まあ、よくあるテレビドラマの貧困家庭ってところ。
ギャンブル好きで借金を次々と作るこれもよくあるダメおやじの典型。
家にある電化製品やカメラがよく無くなったと思うとオヤジが質屋に行ってお金に変える。
それを母親が数か月かけて取り戻す。その繰り返し。
家には毎日のように借金取りからの電話がかかってくる。それをオヤジは子供たちに出させて、【お父さんはいません】と言わせる。もの後ごろついてから苗字を名乗って電話に出たことはない。
小学4年生の時に両親は離婚。兄弟ともに母親と暮らすことになった。
引っ越しの日、最後にオヤジが私たち兄弟に向かって放った言葉は今でも鮮明に覚えている。睨みを利かせながら【お前ら、おぼえておけよ!】と。
泣きながら玄関をバタンと閉じてトラックに乗り込んだことを覚えている。新しい住所をオヤジに知られないために引っ越し業者さんにルートを変えもらい、あえて遠回りしてもらい新居へ移った。ここから母親と兄と3人の生活が始まる。
母親は具合が悪くても仕事を休むことなく私たち兄弟を育ててくれた。
仕事に対しての責任感、生活をすることの大変さ、子供を守る親の責任感。すべて母親の背中を見て育った。
兄と私は中学になると新聞配達を始める。アルバイトをして稼いだ自分のお金で洋服を買ったりフォークギターを買ったり。
当時のアルバイト代が月に1万5千円ぐらい。
あの時代の中学生のお小遣いが2000~3000円程度だったことを考えるとかなりリッチな稼ぎだった。
当時仲が良かった中学生の友達の家は自営業でかなり裕福な家庭だった。遊びに行けばゲーム、漫画、高級オーディオセットに卓球台まであった。
友達の親父さんは工場を経営していて、人手を探していたこともあり、内緒でアルバイトさせてもらった。
当時自給500円昼飯も出前を取ってくれた。
学校が休みの日は、ほぼアルバイトに明け暮れた。
そのころの稼ぎは中学生にも関わらず3万円以上になることもあった。
工場には当時大流行したゲームセンターにあるテーブル型のインベーダーゲームまで設置されていた!
子供ながらに油まみれの作業着を着て働く友達の父親を見て、初めて社長ってかっこいいと!あこがれた瞬間だった。
中学生活は楽しいとは思わなかった。
勉強が嫌いで友達も数人はいたけれど、基本的に群れるのが苦手。
そんな中学生活で初めて彼女ができた。
この子が私の人生の転機となるきっかけを与えてくれた。
つづく
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