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街のBPM

大阪・京都へ旅をした。
今年度中に取得しなければならない休暇(弊社は夏季休暇がない代わりに任意のタイミングで長期休暇を取得できる)を余らせており、言ってみれば季節外れの夏休みだった。
僕のタイムゾーンは南半球にあるらしい。

せっかくの休暇だが、放っておくと結局引きこもって作曲して終わることは目に見えていたため、それならばいっそのこと環境を無理やり変えてしまおう、というわけだ。

大阪の一泊は向こうに住む知人と予定が合ったため飲み歩き、京都の二泊は一人でひたすら無計画に過ごした。

フォロワーさんに教えていただいた書店へ赴き、寺を参拝し、喫茶店で一息吐き、気になっていたレコードショップの存在を思い出して足を伸ばし、好きなアニメの聖地巡礼をした。

築地

コンセプトは、とにかく急がない。

思えば、常に何かに追われるような日々を過ごしていた。
仕事に追われ、作詞作曲に追われ、その他多種多様なバンドの事務作業に追われ。
常に時間が足りないのに物足りない、そんな毎日だった。

絞り出すようにして、自分にしてはかなりのハイペースで曲を書き続けてはいたが、その分読書をしたり美術館へ行ったり、インプットする時間を確保できていなかったので、枯渇する資源に依存して発電し続けているような状態だった。
脳のCPUは常にフル稼働しているようなイメージ。

なのでこの四日間はとにかく日常から離れ、積んであるタスクのことは忘れ、心の向くままに感じるままにインプットしようと決めていた。

色々なものから解放され、真新しい景色を眺める。
気になればカメラで写真を撮る。
道ゆく人を眺める。
観光客だろうか。この辺りに住んでいる人だろうか。

心が洗われるようだった

時間の流れがゆっくりに感じられる旅だった。

本来であれば仕事をしている時期に休暇を取っているからそう感じるのか。
無計画な旅だからそう感じるのか。
京都という街がそう感じさせるのか。

何万回も言われてきたことかもしれないが、やはり京都という街は東京とは時間の流れが違う気がした。

当然京都の人々も日々忙しく過ごしていることだろうし、街という単位で括り、こういう画一的なイメージで雑に論じることは解像度があまりにも低すぎるかもしれないけれど、それでもやはりその街にはその街のテンポ感や匂いみたいなものがあって、そこで暮らす人々のテンポ感の中央値を取れば街ごとに何かしらを論じることはできそうな、そういう差異を何となく肌で感じたりした。

もちろんこの時代、東京でも京都でも限りなく同じ情報に触れられるし、昔に比べれば差異は小さくなっているだろう。
でもやはり街の歴史とか、景観とか、行政が重視している要素によって微妙に色に違いが生まれ、そこで生活する人々のテンポ感も自然と変わってくるように思う。

東京だとどこかスタンプラリー的に話題のスポットを制覇していく、行ったという実績を作っていく、みたいな形で「消費」している人は案外多いんじゃないだろうか。
それは「過剰な街」ゆえで、物も情報も溢れかえっているからこそ、凄いスピードで消費し次へ向かわないと追いつかないからだ。

それに比べて京都の人々はもう少しじっくり付き合っているというか、例えば鴨川のほとりで他愛もない話をしながら日が暮れていく時間の流れを楽しむ、みたいな過ごし方が文化として根付いているように思う。

もちろん東京でもそうした過ごし方が可能なスポットはあるし、極論を言えば自分の心一つで、渋谷や新宿の雑踏の中でもそうしたスローな時間の過ごし方は可能なのだろうけど、
京都では比較的生活の中心に近い部分にそうしたスローなテンポ感が横たわっているような印象を覚えた。
それは、寺や古い建物、そして街を貫く鴨川に寄るところが大きいように思う。

東京でも多摩川や荒川の川沿いには比較的スローな時間が流れている気がする(川にはそういう作用があるのかもしれない)。
しかしどちらも東京の端であることが象徴的で、文化や流行を担い、人が多く集まるエリアからは少し距離がある。
一方、京都は鴨川に程近いエリアが賑わっていて、この差は大きいかもしれない。

今回、川沿いをしばらく歩いたが、散歩したり、読書したり、寝そべっていたり、恋人や友人とのんびり会話を楽しんでいたり、皆思い思いの過ごし方をしているのがとても印象的だった。

石同士の感覚が意外とあって割と怖い

東京を歩いている時、時々自分以外の景色が早送りに感じられ、取り残されているような焦りを覚えるが、京都では景色も一倍速で回っている感覚があった。
今回の旅のテンポと合っていたのだろう。

ある意味では、喫茶店やレコードなど、レトロ・エモ回帰な最近の流れも、加速しすぎた現代、とりわけ東京という街に対するアンチテーゼとしての側面があり、どこかにはもう少し時間の流れを遅くしたい、無駄や不便さを愛でることで心に余裕を取り戻したい、丁寧な暮らしに接近したいという願望の表れでもあるのかもしれない。
みんな疲れているのだろうか。
単純に、進みすぎた街の中で、逆にエモい、映える、という逆張り的発想なだけなのかもしれないけど。

ただそのレトロブームも最早「ブーム」なので今はまた大分形骸化していて消費が加速しているから、好きで喫茶店に行っていてもブームの渦中にいるような忙しなさを感じる瞬間がある。
このレトロブームが到来するよりも少し前に、その当時の最先端のブームから逃げるようにレトロ趣味に行き着いた人々は次にどこに向かうのだろう。
それか、ブームはそのうち過ぎ去ってゆくから、ここに留まり続けるだろうか。

この文章をなんとなく頭の中で組み立てながら東京の街を歩いていたら、直進したい僕と左折したい隣を歩く男性が両者譲らず競歩のように数秒間並走する形となった。(競歩だから並歩か)
すれ違いざまに舌打ちを浴びる。
こちらが速度を緩めればそれで済んでいた話だったのだ。

すべてがハイスピードで過ぎ去ってゆく東京で、時には自分の生活のBPMを落としてみるのも大切なのかもしれない。(雑なまとめ)

なんて、さも東京の人間みたいな顔してここまで書き連ねてきたくせに、住所は千葉県なんだけどね。

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