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『紫式部と清少納言二大女房大決戦』試し読み③

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 道長は早々に退室していき、再び女ばかりとなって、またひとしきり昔話が続いた。陽が沈み、さすがに語らいはお開きとなって、香子は彼女のために用意された小部屋――ひとり用のつぼねに通された。
「どうかしら。狭くはありますけれど、たまたま隣の局は空いていますし、あちらを書籍の置き場にしてもよいと中宮さまからお許しは出ていますよ」
 案内役を買って出た赤染衛門にそう言われ、予想していた以上の好待遇に香子はかえって恐縮してしまった。
「わたくしごときに、そこまでしていただいて本当によろしいのでしょうか」
「何を言うのですか。あなたに望まれているものはただの宮仕えだけではないのですよ」
「はい。中宮さまの進講役――漢籍などをお教えするようにと申しつかっておりますが」
 香子の父、藤原為時ためときは文人として知られており、彼女自身も父から漢籍の講義を受けてきていた。ものおぼえがよく、女にしておくのが惜しいと父に嘆かれたのは、香子にとっても誇りとなる出来事だ。
「漢籍ね。それもそうですけれど……」
 と、衛門はたくらみのある顔をして言いよどむ。
「この先は、わたくしではないかたに話していただいたほうがいいでしょう。お呼びしてきますから、少し待っていてくださいね」
 衛門はそう告げて、さっさと局から出ていく。いったい、何を聞かされるのかしらと香子が不安になりつつ待っていると、やがて衛門が道長を伴って戻ってきた。
 まさか、衛門が人目を避けるようにして道長を連れてくるとは思わず、香子はすっかりうろたえてしまった。道長と衛門は、香子を驚かせることに成功して、いたずらっ子のように喜んでいる。
「大臣、まあ、どうして」
「悪いね、式部。実はね、あなたにこっそり頼みたいことがあるのだよ」
 唐突に現れ、唐突に話を切り出す道長を前に、香子は目を丸くした。同時に、笑いを含んだ若々しい青年の声が、胸苦しいほどあざやかに記憶によみがえる。
『姫君付きの女房だね。実は、あなたにこっそり頼みたいことがあるのだよ』
 道長と初めて出逢ったとき、まぶしい笑みとともに彼から投げかけられた言葉だった。
 ――倫子のもとで新参女房として仕え始めたあの頃、香子はひたすら姫君のお世話に没入していた。
 といっても、掃除などの雑事は別のぞうの仕事だ。香子のような中流貴族の子女たちは、姫君の着替えの手伝いをしたり、話し相手としてそばにはべり、囲碁の対戦役などを務める。来客の対応も仕事のうちとなっている。
 もっとも、未婚の姫君にそう簡単に外の人間を近づけるわけにはいかない。そもそも、貴族の女性は家族以外の異性に気安く姿を見せないのが、この時代の習わしだった。
 とはいえ、そういった深窓の姫君に好奇心を刺激され、熱心に恋文を送る殿方は当然いる。そんな求愛者に女房が懐柔され、彼を姫の寝所に手引きしたために、何も知らずにいた姫は思わぬ相手と結ばれて――といった話もよく聞く。
 倫子姫の場合、赤染衛門をはじめとする古参の女房たちが油断なく目を光らせ、姫をしっかりと守っていた。香子も衛門から「あなたがたも文の取り次ぎを軽々しく引き受けてはなりませんよ。きりがありませんからね」と、うるさいくらいに言われてきたのだ。
 であるから、突然、現れた見知らぬ貴公子の頼みなど聞けるはずがなかった。
 しかし、道長は幾度も現れ、倫子への文を託してくる。その熱意に負け、仕方なく文の取り次ぎをしているうちに、いつしか道長と倫子は相思相愛となったのだった――
 そんな昔を思い出し、懐かしい心地にはなったが、今回、持ちかけられたのは文の取り次ぎなどではあるまい。
「こっそり、とは」
「それほど警戒せずとも。すわって話をさせてもらってもいいかな?」
「こんな狭い局では……」
 香子は断ろうとしたが、衛門がさっさと円座わろうだを敷き、道長も当然のような顔をしてそこに腰を下ろした。こうなると力ずくで追い出すわけにはいかない。何を頼まれるかは見当もつかないが、聞くだけ聞いて辞退する手もある、もう十六の小娘ではないのだからと、香子は自分に言い聞かせ、落ち着こうと努めた。
 燈台の火がじじじとかすかな音をたてて揺れる。それ以外、不思議なくらい物音は聞こえてこない。
 ここにいるのは三人だけ。隣の局は空いているし、盗み聞きする者もいない。だから、心配しなくても大丈夫よと、誰かにそそのかされているような気さえしてくる。こういうときこそ用心しなくてはと、香子はさらに緊張を高める。
 さて……と低い声でささやき、道長は話を切り出した。
「『源氏物語』のことなのだけれどね。源氏の君の新たな恋物語をみなが首を長くして待っているというのに、ここのところ、いっこうに新作が出まわってこないのだけれども、続きはどうなっているのかな?」
 えっ、と言ったきり、香子はしばし絶句した。
 もっととんでもないことを求められるのかと身構えていたのに、物語の続きの催促とは。
 戸惑いと恥ずかしさと嬉しさと、その他、形容できない感情で頭をごちゃ混ぜにしながら、香子はなんとか言葉をひねり出した。
「続き、と申されましても……。わたくしには小さな子もおりますし、日々のあれやこれやに時間はあっという間に流れてしまい、ゆっくりと文机に向かういとまもありませんでしたので……」
「では、書くつもりはあるのだね?」
「どうでしょう。正直なところ、記すべき話の種も尽きてしま……」
「そんなはずはない」
 物語を書いた経験もない道長が、なぜかきっぱりと断言した。傍らに座した衛門も、無言ながら道長に同意するように深くうなずく。
 道長は左大臣で、衛門は先輩女房。自分よりも上の立場にあるふたりから圧をかけられ、香子は二の句が継げなくなった。その間に、道長が彼の意見を滔々とうとうと語り出す。
「わかっているとは思うが、多くのひとびとが、いまかいまかと続きを待っているのだよ。それはそうだとも、光る君の恋物語はまだまだ終わりそうにないのだからね。この先、光る君はどうなっていくのか。人妻ゆえに身をひいた空蟬、物の怪に命を奪われた夕顔ゆうがおかれる要素がどこにもないのに見捨てられない赤鼻の末摘花すえつむはなと来て、さて次なる恋のお相手は? 光る君に引き取られた幼いわかむらさきの行く末やいかに? いやいや、その前におぼろづきだな。何しろ、彼女は光る君を憎んでやまない、あの殿でんにょうの妹なのだからね。この恋はきっと波乱を呼ぶだろうとも」
 物語に登場するおんなぎみの名が、次々とあげられていく。本当に読んでくださっているのだわと知ることができて、香子はすっかり驚いていた。
 道長に「あの」呼ばわりされた弘徽殿の女御は、光源氏の父、きりつぼていの妃。源氏の母、桐壺きりつぼこうに夫の愛を奪われて、更衣を大層憎んでいた。更衣が病没後も、彼女の忘れ形見の光源氏をずっと目のかたきにする、物語中いちばんの悪役だ。
 そんな女御の妹と源氏が関係を持ったところで、現在、『源氏物語』は中断しているのである。
「このことを女御が知ったら――と、誰しもがわくわくしながら待っているのに、そこでぱたりと続きが出なくなってしまったのだからね。なんと罪深いことか。記すべき話の種が尽きたなどと、とてもではないが信じられないね」
「そう言われましても……」
 香子は言葉を選びつつ反撃を試みた。
「構想はないわけではないのですが」
「だったら」
「ですが、それを文章として書き表すのがなかなか難しく……。それに、いつまでも物語に逃げこんではいられない、母親として遺された子のためにもしっかりしなくてはと思うに至りまして」
「そう。物語には、ひとのかなしみや苦しみを忘れさせる効用がある。書く側だけでなく、読む側にとってもね」
「だから、必要なのですよ」
 と、横から衛門が口を挟む。彼女と道長は共犯者めいた視線を交わし合った。
 香子はますます落ち着かなくなった。
 このふたりは、単に物語の続きを乞うているのではない。何かを企んでいる。そう思えてならなかった。
 そのことを倫子さまや中宮さまはご存じなのだろうかと考え……、もしかして全員が示し合わせているのかもと疑う。一度、疑い始めると、さいしんはますます深まっていく。
 わなにはめられた気がした。御所での宮仕えを名誉なことと捉え、実は少々浮かれてもいたのだが、そんな自分が浅はかに感じられてくるし、こんな気持ちにさせてくれた道長が恨めしくもなる。
 かつなことは言えないと黙りこむ香子を前に、道長が諭すように言い始めた。
「あなたも知っていようが、あえて言わせておくれ。中宮さまが数えの十二歳で入内されたとき、後宮にはすでに幾人もの妃がおわしました。しかし、主上のお気持ちは皇后定子さま、ただおひとりに向けられていた」
 皇后定子。彼女は道長の兄・道隆の娘で、入内当時は十五歳。帝は十一歳だった。
 あの頃、道隆を祖とするなかの関白かんぱくは隆盛を誇っていた。娘の定子はまずは女御として入内してから、中宮となり、息子の伊周これちかも父の意向で十代にして急速に昇進していく。
 帝にとって四つ年上の定子は、しの姫――元服の際に添い寝役を務め、そのまま妻となる特別な相手だった。いわば、初めてのひと。ひとかたならぬ思い入れがそこに生じるのも不思議ではない。
 賢く明るい気質の定子のもとには、優秀な女房たちが多く集った。中でも有名なのは、『まくらのそう』を記したせいしょうごんだ。彼女たちの間では機知に富んだ会話が飛び交い、上流貴族の御曹子たちからも羨望のまなざしが向けられていたという。
 帝に愛され、順風満帆と見えた定子の人生に暗雲がたちこめるのは、彼女の父・道隆が没してからだった。それまで、他の貴族たちは権勢をふるう道隆に遠慮をして、自分たちの娘を入内させるのを控えていた。しかし、道隆の死とともにその遠慮もなくなり、次々と新たな妃が入内してくる。
 さらに、定子の新たな後見役となった兄の伊周と、叔父おじの道長との間に、一族の長の座をめぐって権力争いが勃発。そんな折も折、伊周は自分の恋人のもとにときのざん法皇が通っていると誤解し(法皇が通っていたのは同居する別の姉妹)、従者に命じ、法皇めがけて矢を射かけさせるといった不祥事を起こして失脚する。
 定子は失意のあまり、自ら髪を切って出家するが、帝はそんな彼女をなおさらいとしく感じ、宮中に呼び戻して寵愛し続け、やがてふたりの間に第一皇女、第一皇子が続けて誕生する。
 彰子が入内したのは、そんな時期だったのだ。
 十二歳の彰子では、帝と深く心を通わせた二十代の定子に太刀打たちうちできるはずもない。
 他の妃たちにも帝はそれなりに愛情を示したが、帝の御子は定子が産んだ皇子皇女のみ。後見を失った不安定な身でありながら、依然、定子は帝の一のちょうであり続けた。
 このままであれば、失脚した伊周も、おいである皇子の後見役として政治の表舞台に復活する可能性が出てくる。そう考えた周囲の貴族たちは、昼は道長、夜は伊周のもとを訪れて、自身の保身を図るようになる。
 そんな混迷の中、定子は三度目の出産で第二皇女を産んだのちに死去。二十五歳の若さであった。
「皇后さまが亡くなられて、もう何年も月日が経った。その間に、わが娘・中宮彰子さまもご立派に成長された。もはや十二歳の童ではない。輝かんばかりの二十歳。そのことに主上にも早く気づいていただきたいのだ」
 父親として、藤原の氏長者として、道長が望むのは、娘の彰子が帝に寵愛され、皇子をもうけること。その皇子が東宮とうぐう(皇太子)の座に就いて、次の帝となることだ。
 そうすれば、道長は帝の外祖父として朝廷を完全に掌握できる。この国の貴族たちは代々そうやって、自らの権力を維持してきたのである。
「中宮さまを、いま以上に魅力的な女人に。漢籍に通じたあなたを女房に迎えたのも、学問好きの主上に中宮さまのことを思い出していただくための手段だった」
 道長のあけすけな言いように戸惑いながらも、香子は小さくうなずいた。自分が採用された理由がそこにあることは、香子自身も承知していたのだ。だが、それに加えてさらなるものを求められようとは……。
「あの『源氏物語』の作者が中宮さまの進講役を務める。つまり――」
 道長は思わせぶりに言葉を句切り、にやりと笑ってみせた。
「いま、この藤壺にお越しくだされば、あの『源氏物語』の続きが読める! かもしれない!」
 急に声を大きくして子供のようにはしゃぐ道長を、衛門がひとさし指を立て、しいっ、しいっと𠮟る。道長はすぐに静かになり、こふんとせきばらいをして、すまし顔に戻った。
 呆然ぼうぜんとする香子に、衛門が先輩女房の余裕を示しつつ微笑みかける。
「これは書かないわけにはいきませんわね、式部」
「衛門さままで……」
 抗弁しようとした。が、脱力してしまい、言葉がうまく出てこない。
 話の種が尽きたなどとは言ったが、それは噓だった。おぼろげではあるが、光源氏の誕生からその晩年まで、大方の流れは構想済みだった。さらに言うなら、彼の子の世代の話も途中までなら考えていた。
 とはいえ、空白になっている部分も多い。細部までは煮詰めていないし、実際に書いてみると話がつながらないことも、しょっちゅうだ。話を考えることと、執筆すること、このふたつはまったく別次元の作業なのである。
 ましてや、いままでは自分のために書いていた物語を、帝に読ませるため、その関心をひきつけるために書くなど――本当にできるのだろうかと怖じ気づいてしまう。
「無理ですわ、そんな……」
 弱音を洩らす香子に、衛門が言う。
「気負わずともよいのですよ。あなたの中にある物語を、わたしたちにもわかるように文章として描き出して欲しい。源氏の君のよろこびと苦悩を見せて欲しい。望むのは、それなのですから」
 うむうむと、道長も幾度もうなずく。よくもまあ、そんな気楽なお顔ができるものだと香子は道長を憎らしく思った。
 いっそ、この場で気を失ってしまえたら、どれほどの重圧と闘っているか、理解してもらえるだろうか。しかし、そうそう都合よく気絶できるものでもない。
 さんざんためらった末に、香子は消え入りそうな細い声で告げた。
「時をいただけますでしょうか。物語を書かなくなって久しいものですから、本当に書けるものやら、自信もまったくございませんし……」
「あなたは書くよ、藤式部」
 平然と道長は言い切り、
「そうだ。あなたの新しい呼び名だがね」
 と、いきなり話を変える。
「病にかかった源氏の君が療養のために北山きたやまに赴き、そこで十歳ほどの少女とめぐり逢うだろう? その少女が実は藤壺の宮のめいで、光る君は許されぬ恋の相手の面影を少女に重ねてしまう。あのくだりが、なかなか印象深くてね。どうだろう、若紫とも称されるあの少女にちなみ、若紫式部……」
 衛門が容赦なく言う。
「語呂が悪いですわね」
 香子もそれに乗った。
「ええ。それに、わたくしはもう若くもありませんですし」
 いやみですわ、と付け加える。道長は驚いたように、おお袈裟げさに首を左右に振った。
「何を言う。わたしなど、もうとっくの昔に年寄りの仲間入りをしているのだよ」
 四十歳が初老とされる時代だ。年が明ければ四十二歳になる道長が年寄りを自称するのは、冗談でもなんでもなかった。それでも、香子は心の中で、いいえと打ち消す。
 いいえ、あなたはいつまでも、若く綺羅綺羅しい貴公子のままなのですわ。だから、そんな無理をわたしに強いられるのですよ。
 直接そうも告げられず、香子は小さくため息をついた。道長は彼女のため息をなんと誤解したのか、
「わかった、わかった。では、若をとって、むらさきしきはどうかな」
「――紫式部、ですか」
「ああ。もとの呼び名の藤式部にも通じるだろう? 藤の花の色は紫だからね。そして、若紫の少女や、源氏にとっての永遠の女性、藤壺の宮にも通じる色だ。紫のゆかり、というわけだね」
 ゆかり、つまり、紫で繫がる縁。その語句の響きは本名の香子とも似通っていた。
「どうだろう、これなら『そうか、あの物語の作者の……』と誰しもがすぐに思いつくし、いい宣伝にもなる」
 ああ、女房名にこだわっていたのは、そういう狙いがあったからでしたかと、香子は納得した。
 このひとは政治家で、一見なんでもないようなことにも、すべて計算が働いている。それくらいやらなくては生き残れない、油断をすれば親類縁者からも蹴落とされかねない、厳しい世界に身を置いているのだ、とも再確認する。
 倫子の娘である彰子がときめいてくれたほうが、香子にとっても望ましい。ここは道長に協力すべきだと思う反面、物語まで政争に利用しようとする彼を無性に突き放してやりたくもなる。
「まだ少し、呼びにくいですわね」
 精いっぱいの抵抗として、わざと素っ気なく言ってみる。道長はあわてふためき、
「いや、そんなことはない。慣れれば、式部も気に入るはずだ」
 と力説した。その様子がおかしくて、香子は思わず吹き出してしまった。笑った時点でおのれの負けなのだと自覚しながら。
「紫式部――紫は高貴な色。素敵な呼び名ではありませんか」
 と、優しく衛門が言ってくれたのが、せめてもの慰めだった。

次回に続く)

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【著者紹介】
瀬川貴次(せがわ・たかつぐ)
1964年生まれ。91年『闇に歌えば』でデビュー。集英社コバルト文庫に「聖霊狩り」シリーズ、「鬼舞」シリーズなど著書多数。集英社文庫に『波に舞ふ舞ふ 平清盛』、『闇に歌えば 文化庁特殊文化財課事件ファイル』、「暗夜鬼譚」シリーズ、「ばけもの好む中将」シリーズ、オレンジ文庫に「怪奇編集部『トワイライト』」シリーズ、『わたしのお人形 怪奇短篇集』、「怪談男爵 籠手川晴行」シリーズ、『もののけ寺の白菊丸』がある。ほかに『化け芭蕉 縁切り塚の怪』『百鬼一歌 月下の死美女』など。また、瀬川ことび名義での著書に『お葬式』『妖霊星』などがある。

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