『紫式部と清少納言二大女房大決戦』試し読み②
翌朝、ちい姫が目を醒ます前にと、香子は大量の荷物とともに早々と御所に向かった。
身にまとうものは正式な女房装束。幾枚と重ねた袿の上に、さらに腰丈の唐衣を重ね、後ろに長く引いた裳も着用と、孔雀のように華やかになったのはいいが、とにかく窮屈で息が詰まる。若くもない自分がこのように着飾って、滑稽ではないかと危ぶむものの、身分の高いかたと対面するのだから飾らないわけにもいかない。
(いいのよ、いいのよ。何事も最初が肝心なのよ。たぶん……)
と、香子はお題目のように自分に言い聞かせた。
まずは多くの官庁が建ち並ぶ大内裏を抜けて、その中核たる内裏へと進む。
青く晴れた空の下、内裏の正殿たる紫宸殿の檜皮葺の屋根が見えてくる。その北西に位置するのは、帝の住まう清涼殿だ。衣冠束帯の貴族たち、背すじをしゃんとのばした女官たち、警固を務める武士などがいそがしく行き交う姿も垣間見える。
扇で顔を隠した、そのわずかな隙間からうかがうだけでも、御所のたたずまいには圧倒された。覚悟をして出てきたはずなのに、こんな晴れがましい場所でわたしは本当にやっていけるのかしらと、気持ちがくじけそうになる。が、幸い、内心のそのおびえは外にはまったく洩れていなかった。
香子は後宮内の殿舎のひとつ、飛香舎――別名、藤壺へと通された。清涼殿にも近いこの殿舎が、今日から香子が仕える中宮彰子の御在所だった。
妃の呼称のひとつである中宮は、平安期においては皇后とほぼ同格。今上帝の皇后定子は六年前に逝去しており、よって彰子は間違いなく帝の一の妃であった。
「中宮さまへのお目通りの前にこちらへ」
そう言われて案内された一室では、数人の女房たちにかしずかれた、四十歳ほどの典雅な貴婦人が脇息にもたれかかって香子を待っていた。
上流貴族の品格をまとい、表が白、裏に紅梅色を重ねた装束に身を包んだ彼女は、さながら雪を戴く紅梅の花のようだ。
優しい声で彼女は言う。
「懐かしいわね、式部。わたくしをおぼえていて?」
その瞬間、香子の中で一気に時間が遡った。
いまは昔、二十年ほど前のこと。香子はまだ何も知らない、十六歳の少女だった。
その頃、父が職を失ったのをきっかけに、香子は当時の左大臣であった源雅信の娘、倫子のもとに女房勤めにあがったのである。
倫子は当時、二十四歳。大臣家の姫君として、当然、帝のもとへの輿入れ――いわゆる入内が望まれていたのだが、当時の帝はわずか八歳。どうにも歳まわりが合わず、いささか婚期を逃し気味であったところに、二十二歳の道長が求婚してきて結婚。ふたりの間に生まれたのが、今回、香子が仕えることとなった中宮彰子なのであった。
倫子も、もう四十なかば。それでも、品のいい顔立ちに変化はほとんど見受けられない。いまでも深窓の姫君そのままの美しさ、若々しさだ。
「姫さま、お懐かしい……」
つい、十六歳当時の気持ちに戻って、香子は倫子を姫さまと呼んだ。すぐにハッとわれに返り、「申し訳ありません!」と叫ぶように言って平伏する。しかし、倫子は咎めるどころか目を細め、ほがらかに笑った。
「わたくしも懐かしくてよ。まさか、衛門だけでなく、あなたまでわたくしの娘の女房になってくれるなんてね」
倫子のまなざしが、傍らに控える五十近い女房に向けられた。毅然と胸を張っているその女房は赤染衛門――姓が赤染、父親の官位が右衛門尉だったことにちなんでの女房名――だった。
二十年前、若女房たちに睨みを利かせる怖い古参として倫子のもとにいた衛門は、いま、娘の彰子に仕えている。香子は再び、衛門を先達として仰ぐこととなったのだ。
こちらも昔とほとんど変わっておられないと、香子は感慨にひたりながら衛門をみつめる。
(でも、少し白髪が増えておいでかしら……)
とは感じたものの、もちろん、そんなことはおくびにも出さない。
「お久しぶりです、衛門さま」
先達に敬意を表して深く頭を下げると、衛門のほうもにこりと微笑み返してくれた。
「本当にね、式部」
倫子のもとで女房勤めをしていた頃、香子は藤式部と呼ばれていた。藤原姓であったこと、失職前の父の官職が式部丞であったことにちなんでいる。
かつての女房名で呼ばれ、宮仕えがいよいよ始まるのだと香子は改めて実感できた。それは気後れと同時に、彼女の心をわくわくと浮き立たせた。
世にただひとりの帝を中心に、その寵を得んと願って、数多さぶらう妃たち。
上流貴族の貴公子たちは政治の駆け引きに明け暮れつつ、一方で恋の駆け引きも忘れない。色鮮やかな薄様の紙に香を焚きしめ、これぞと思った相手に恋文を送る。夜ともなれば、恋人のもとにそっと通う沓音が聞こえてくる――
そんな雅やかな遣り取りを、間近で目撃できるかもしれないのだ。
そう考えると、どうしてあんなに宮仕えを渋っていたのかと自分でも不思議になってくる。やはり、あれこれ案じるよりも、とにかく飛びこんでみたほうが道は自然に拓けてくるようだ。その道が果たしてどこに続いているかは、それこそ進んでみないことには知りようがない。
果たして、鬼が出るか蛇が出るか。それとも、理想の貴公子や、天女のごとき美しい姫君がさんざめく、きらびやかな世界を垣間見せてくれるのか。
「衛門さま、長らく家に籠もっておりましたもので、女房としての嗜みをすっかり忘れてしまっております。どうぞ、この式部をよろしく御指導くださいますように」
衛門に向けた言葉はまぎれもない本音だった。わからないこと、手に負えないことがあらば、この頼もしい古参に助言を求めればいい。最終的にそう思えたからこそ、出仕を承諾したと言っても過言ではなかった。
「何を言いますの、式部。あなたに指導など、とんでもない。わたくしも読みましたわよ、光源氏の物語を」
衛門にいたずらっぽい口調で言われ、香子の頰にさっと赤みが差した。衛門はその反応を見て、余計に嬉しそうに続ける。
「帝の皇子として生まれた完璧なる貴公子。誰が言うともなく、輝く光る君と呼ばれるようになった彼のひとの、華々しい恋の数々――真面目で引っ込み思案だったあなたが、あのような恋物語を書きつづるようになるとはね」
「衛門さま、どうか、その……」
もじもじと縮こまりながら、香子は衛門に言った。
「あれは深い考えもなく、古の物語を自分の好みのままに膨らませて書きつづったまででありまして……」
「そんなに謙遜しなくても。昔の物語に似た部分がないとは言わないけれど、とにかく光源氏の設定が素晴らしいですからね。帝の皇子として生まれながら、臣籍に下らざるを得なかった美貌の貴公子。そのあまりの麗しさに、誰もが彼を愛さずにはいられない。けれども、光る君がひたむきに恋い焦がれるのは、父君の妃である義理の母御、藤壺の宮で。これは誰にも知られてはならない、許されざる恋――この設定だけでも畏れ多くて胸がどきどきしてくるわ」
「え、衛門さま……」
ますます恥じ入る香子の耳朶を、倫子のほがらかな笑い声が打つ。
「衛門、そんなに式部をいじめては駄目よ」
「これは失礼いたしました」
衛門は慎ましやかに頭を下げたが、
「わたしこそがそれを言いたかったのに」
倫子はそう明かすや、ずいっと前に身を乗り出してきた。
「本当に驚きましたよ。あのかわいらしい式部が、類い稀なる貴公子の多彩な恋愛遍歴を書きつづっていただなんて。あれはいったい、どこからどこまでが本当のお話なの? あなたの体験が盛りこまれていたりするの? 違っていたらごめんなさいね。ひょっとして、源氏の君が御執心された空蟬との馴れそめあたりが、それだったりはしないかしら?」
光源氏は方違え(不吉な方角を避けるため、いったん別の方角に寄ってから目的地に向かう風習)のために泊まった紀伊守の邸で、守の父・伊予介の後妻・空蟬の話を聞き、彼女に興味をいだく。さらにその夜、宿泊した部屋の襖障子越しに空蟬とその幼い弟の会話を盗み聞き、存外に近くに寝ているのだなと知ってしまう。
みなが寝静まった頃、試しに襖を引いてみると施錠もされていない。難なく空蟬の褥にたどり着いた源氏は、「ひと知れずお慕いしておりました」などとかき口説き、あまりのことに気が動転している彼女と強引に契りを結ぶ。
あれを自身の体験談だと誤解されては、たまらない。香子はかつてない羞恥にぞぞぞと震えあがり、勢い余って鶴のようにまっすぐに背すじをのばした。
「そんな、とんでもない」
顎がこわばって、弁解の言葉もかくかくかくと揺れる。なんて聞き苦しいとは思ったが、それでも言わずにはいられない。
「あ、あり得ませんわ。自らの閨房の体験を書きつづって他人に読ませるなどと、そのような破廉恥な真似、できようはずがないではありませんか。あれはすべて、わたくしが想像した架空の出来事でありますれば」
「あら、そうなの? だって、空蟬のくだりはずいぶんと描写が生々しいのですもの。これは式部の実体験に違いないと衛門が言うものだから、わたしはてっきり」
「衛門さま!」
衛門はあさっての方角を向き、知らん顔を決めこんでいる。他の若女房たちは下を向いたり、広袖で顔を隠すなどして、必死に笑いをこらえている。
それでも耐えきれなかった誰かが、鈴を振るような笑い声をたてた。その声は、倫子の後ろに立てた几帳のむこう側から聞こえていた。
倫子は檜扇を揺らし、苦笑しつつ後方を振り返った。
「いけませんわ、中宮さま。そこにおいでなことが式部に悟られてしまいましてよ」
倫子の発言に、香子はぎょっとして几帳を凝視した。
美麗な几帳の薄い帷子をそっと押して現れたのは、まさしく天女のごとき美しい姫君だった。
表が蘇芳色(紫がかった赤)、裏が紅の椿の小袿が、彼女にさらなる気品を添えている。あえて紹介されずとも、彼女が誰なのかは香子にもひと目でわかった。
今上帝の一の妃、藤原道長と倫子の間に生まれた長女、中宮彰子だ。
穏やかな笑みをたたえた口もとは、母の倫子譲り。意志の強さと利発さをうかがわせる、くっきりとした目もとは――
(道長さまに似ておられる)
有力氏族、藤原の氏長者にして現職の左大臣、藤原道長。
その道長の在りし日の姿を、香子は目の前の若い妃に感じ取って胸が熱くなった。
二十年前の道長は、五位相当の左近衛少将。ときの権力者、藤原兼家の子息で五男坊。父の後継は、道長よりも十三歳年長の長男・道隆とすでに決まったも同然だった。
上流貴族の家に兄弟が多い場合、兄たちに上位の官職を独占されて、下の弟にまではお鉢がまわってこず、結果的に弟が割りを食う羽目になることがしばしば見られた。五男坊の道長もそうなる可能性は大いにあり、左大臣家の姫君である倫子とは、いささか不釣り合いな相手であった。
そのため、倫子と道長が相思相愛だと露見した際、倫子の父の雅信は、
「あそこの五男坊と?」
と驚愕したし、道長の父の兼家でさえも、
「うちの五男坊と?」
と大いに動揺した。
困惑する父親たちを前に、堂々と采配をふるったのは、倫子の母・穆子であった。
「あそこの五男坊は、いずれひとかどの人物となります」
何を根拠にか、そう断言したのだ。
「いま無理をして、八歳の帝のもとに二十四歳の姫を入内させたところで、うまくいくはずがないのはおわかりでしょうに。やがては歳まわりの近い別の妃に御寵愛が移るは必定。それよりも、二十二歳の五男の君のほうが、姫をきっと大事にしてくださいますとも。というか、してもらわなくては困ります。格上の妻を迎えたことを励みとし、兄君たちの官位を飛び越えるぐらいの気概を示してもらわねば」
結果、穆子の予言通りになった。
都に疫病が流行った際、道長の兄たちは次々に病死し、代わって五男坊の道長が藤原一族の頂点に立ったのである。そのため、七十過ぎの姑・穆子に対し、道長はいまでも頭が上がらないという。
(そして結ばれた、おふたりの御子が中宮さまに。もしかしたら倫子さまが入内されていたかもしれない今上帝の後宮に、御子の彰子さまが一の妃としてお住まいになるなんて、つくづく不思議な巡り合わせだこと……)
かつて女房として、道長と倫子の取り次ぎを行っていた香子は、さだめの糸が紡ぎ出す織り模様の霊妙さをしみじみと感じた。こうして倫子と彰子、二代続けて仕えるようになったのも、あの頃からすでに定められていたのかもとさえ思えてくる。
久しぶりに対面した香子と倫子たちとの間に話題の種は尽きなかった。交わされるにぎやかな会話に、彰子は他の女房たちといっしょに楽しそうに耳を傾けている。中宮としてではなく、母とその古い知人たちの語らいを純粋に面白がっている様子だった。
どちらかというと物静かな、おっとりとしたかたなのかしらねと、香子は秘かに思った。だとしたら、物怖じしない陽気な倫子とはまた違った気質であるようだ。
(かといって、お父上とも違うわよね……)
記憶の中の道長を呼び起こしかけたところに、取り次ぎの女房が簀子縁を急ぎ渡ってきた。
「失礼いたします。大臣がただいま、こちらへおいでなさいました」
左大臣道長が来ると聞いて、座に連なる女房たちがいっせいに居住まいを正した。倫子と彰子の親子は互いに視線を交わして、ふふふと微笑み合う。
「存外に早い御登場だこと。懐かしい顔が見たくて、急いで公務を終わらせたのかしらね」
倫子の言に、とんでもないと香子は震えあがった。道長に久方ぶりに対面できるのは嬉しいが、かつての少将は、いまや左大臣。身分がまったく違ってしまっている。香子自身も十六歳ではなく、三十代なかばの寡婦。どのような顔をしていいものか、咄嗟に思いつかない。
そうしている間にも、しゅっ、しゅっ、と衣ずれの音が近づいてくる。
「おや、中宮さまもこちらにおいででしたか」
そう言いながら現れた道長は、垂纓の冠に黒い袍を身につけ、朝廷の重鎮・左大臣としての風格を漂わせていた。それでいて、香子が初めて彼と出逢った当時の青年貴族の面影もしっかりと遺していたのだ。
(道長さま……)
出仕すれば、道長と対面する機会が必ず来る。そうは思っていたが、まさかこれほど早くそのときが来るとは、香子も予想していなかった。心の準備が間に合わず、まともに彼を見ることができない。
道長はまず、彰子に丁重に挨拶をした。自分の娘とはいえ、いまは帝の妃、彼女に敬意を表するのは当然のことだった。それから、道長は初めて香子に気づいたかのように振り返った。
「藤式部か」
はい、と応える香子の声が震える。と同時に、居並ぶ女房たちのひとりが、なぜかぴくりと反応した。
おやっと訝しむ香子に、倫子がそのわけを説明する。
「あちらの女房も藤式部と呼ばれているのですよ。よくある呼び名だから仕方がないわね」
なるほどと納得していると、道長がなぜか嬉しそうに言った。
「では、こちらの式部に新しい呼び名を早急に考えてやらなくてはならないな」
「新しい呼び名、ですか……」
おそらく、父が国司として赴任した越前の国名で呼ばれるのでしょうねと予想する香子に、道長は待っていたとばかりに告げた。
「どうだろう、例の源氏の物語にちなんだ名をつけては」
「えっ」
「何がいいかな。空蟬……蟬式部はあんまりかな」
「せ、蟬ですか?」
思わず声を裏返した、香子以外の全員が笑い出した。香子はあわてて口を広袖で押さえ、顔を真っ赤にする。
光源氏の物語を彼女が書き始めたのは、夫に先立たれてしばらく経った頃だった。
たった二年あまりの結婚生活ののちに、早々と旅立ってしまった夫。親子ほどの年の差がある彼は、そもそもは父の同輩で、すでに複数の妻と子がいる身だった。二十代の後半で、当時としては婚期を逃した感のあった香子を、気の毒に思っての結婚だということは否定できない。
それでも、恋歌を送ってくれたりと、きちんと恋愛の手順を踏んでくれた。喧嘩もした。仲直りもした。子供も授かった。だからこそ、彼に先立たれてからは何もかも手につかなくなった。
このままではいけない。娘のためにも、しっかりしないと。そう思い、自分自身を立て直すため、生き続けるために、底知れぬ暗闇を手探りで這いずるようにして始めたのが、物語の執筆だった。
それまで、ただ漠然と頭の中で思い描いていた、理想の貴公子の物語。それを文章で描き出し、形にする。
わが身の一部を引きはがすのにも似たその作業は、喪失ではなく再生のための通過儀礼のように香子には感じられた。
誰かに見せるつもりなど毛頭なかった。なのに、書きあげたものを文机の上に置いていたところ、家の女房に勝手に見られたのだ。怒ろうとしたのに、それより早く「この貴公子は、女人たちはどうなりますの」と前のめり気味に問われ、怒れなくなった。「続きを読ませてくださいませ」と乞われて、断り切れなくなった。
戸惑いながら書くうちに読み手が増え、物語は筆写されて周囲に広まり、いつの間にやら『源氏物語』としてひとり歩きをし始めたのだ。こうして宮仕えの誘いが来たのも、『源氏物語』が話題となったのが理由のひとつとしてあげられるだろう。
なのだから、作者としていじられるのは仕方がない。仕方がないとはいえ――
「もうどうか、お許しくださいませ」
香子の訴えに悪かった悪かったと謝りつつも、道長はずっと明るく笑っていた。そこにいるのは近寄りがたい朝廷の要人ではなく、まるで無邪気な少年のようであった。
(次回に続く)
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