『紫式部と清少納言二大女房大決戦』試し読み①
一 宮仕えが始まる
帝とその妃たちが住まいし、政治の中心でもある平安の御所――
陽が落ち、都の辻々は濃い闇に包まれたうえに、ちらちらと雪まで降ってきた。一方、御所ではそこかしこで篝火が焚かれ、軒にも数えきれないほどの釣燈籠が備え付けられて、まばゆいばかりの光を放っていた。
とはいえ、夜の闇を完全に払拭できたわけでもない。たとえば、花鳥風月が描かれた屛風の後ろに、御簾が垂らされた柱の陰に、冬の冷気をまとった黒より黒い濃密な闇がわだかまっている。
その若女房もそんな闇のひとつに、知らず知らずのうちに引き寄せられていたのかもしれない。女房装束の長い裳裾を後ろに引きながら、通路ともなる廂の間をひとり歩いていた彼女は、ふと足を止めて行く手に目をこらした。
日暮れとともに下ろされていたはずの蔀戸が、なぜか一枚だけ、上げられたままだったのだ。おかげで、凍えるような夜気とともに、細かな雪片が殿舎の中へ容赦なく舞いこんできている。
「なんてこと。いったい誰の怠慢かしら。一枚だけ下ろし忘れるなんて」
眉間に縦皺を刻み、ぶつぶつと文句を言いながら蔀戸に近寄る。代わりに下ろしてやろうとのばした手を、彼女は途中でふと止めた。釣燈籠の光も届いていない庭の暗がりに、ほの白い人影を見かけたからだった。
「あら、そこにいるのはどなた?」
訊いた直後に、なぜ人影のみが白く見えるのだろうかとの違和感に気づき、彼女はぞっと鳥肌を立てた。
その人物が紙燭か何か、明かりを手にしているのなら、白っぽい装束がその輝きを反射するということもあり得よう。にしても、頭の先から装束の裾まで、全体が白く見えるのも奇妙だ。それに、女人のようだが、こんな小雪の舞う寒い夜に女がひとり、何をするでもなく、ただ庭にたたずんでいるのもおかしくはないか。
もしや、あれはこの世のものではないのやも……。
そんな疑念が頭に浮かんだと同時に、すっと白い影が消える。女房は思わず恐怖の悲鳴を放ち、その場にうずくまった。
夜陰に響いた悲鳴を聞きつけて、彼女の同僚たちが数人、衣ずれの音をさせながらただちに駆けつけてくる。
「どうしたのです。何事ですか」
最も年かさの古株女房、赤染衛門が凜とした口調で問う。その声にハッとわれに返り、悲鳴をあげた女房はなんとか気を取り直して訴えた。
「いま、いま、そこから見えた庭先に誰かがいて、白い人影で、しかもそれが突然に消えてしまって」
蔀戸のむこうを指さし、歯をかちかちと鳴らしながら、さらに付け加える。
「物の怪ですわ、きっと、物の怪が現れたのですわ」
この時代、平安の御世では物の怪が――死霊や生霊を含めた、広い意味での妖怪変化が夜ごとに跋扈し、ひとびとを苦しめていると考えられていた。だからこそ、貴族たちは日々の吉凶を陰陽師に占わせ、少しでも気にかかることがあれば、僧侶に加持祈禱を頼んで災厄を退散せしめようと試みたのだ。
赤染衛門とともに現場に駆けつけた女房たちは、物の怪と聞いて、さっと顔色を変えた。
「も、物の怪が?」
「また出たのですか?」
第一発見者の女房は、せわしないほどの勢いで何度もうなずいた。
「ええ、確かに見ましたわ。真っ白い人影で、たおやかな女人のようで。あれはきっと……」
彼女が言いよどんだ先を、別の女房が引き継ぐ。
「亡き皇后さまの霊鬼……」
次の瞬間、赤染衛門が天から下された稲妻のごとくに鋭く𠮟咤した。
「お黙りなさい」
𠮟られた女房はひっと小さな声をあげ、広袖で自らの口を押さえた。追い打ちをかけるように赤染衛門が言う。
「そのような不埒なことを軽々しく口にするものではありません。それに、皇后さまが身罷られたのは六年も前のこと。どうして、いまになって皇后さまの霊が現れましょう。理屈に合わないではありませんか」
齢五十近くになろうという古株女房に語気鋭く言い返されては、若い女房たちになすすべはない。お許しください、わたしたちが浅薄でありましたと口々に謝りながら、頭を下げて縮こまる。物の怪に対する恐怖を、堂々たる上役女房への畏怖が力ずくで上塗りしていく。
畏縮する若女房たちを見廻し、赤染衛門は大きくため息をついた。
「頭の痛いこと。こんなときに藤式部がいてくれたら、わたしも少しは楽になるでしょうに……」
「藤式部をお呼びですか? ならば、すぐにも……」
女房のひとりが気を利かせて申し出る。しかし、赤染衛門は苦笑し、首を横に振った。
「いいえ、その藤式部ではないのです。もうすぐここに来る手はずの新しい女房が藤原姓で、昔から式部と呼ばれていたので、つい。……そうね、同じ名前の女房がすでにいるのだから、新参の彼女には別の呼び名を考えなくてはね」
赤染衛門は軒から下がった釣燈籠の綺羅綺羅しい明かりを見上げてつぶやいた。
「藤式部、藤原香子……。あの『源氏物語』の作者の新たな呼び名を……」
燈台の油皿の上で、芯の先に点された細い火が、頼りなげにゆらゆらと揺れている。そのはかなげな明かりを頼りに、香子はおのれの荷の整理を続けていた。
「またですか? その荷は先ほどご覧になったではありませんか」
香子に長く仕えている、家の女房が不満そうにつぶやく。もう眠いのだろう、目をしょぼしょぼとさせて、あくびを懸命にこらえているのも伝わってくる。
彼女がそう言うのも無理はなかった。これで何度目になるのか、女房たちに手伝わせ、荷作りはほぼほぼ終えていたというのに、どうしても気になるからと、また荷をほどき始めたのだから。
「いいわよ、先に寝ても。ちい姫や乳母はもうとっくに休んでいるのだから、あなたも下がりなさい」
「……申し訳ございません。では、そうさせていただきます。今宵は冷えますから、御方さまも早くお休みになってくださいましね」
頭を下げ、女房は袿の裾を引いてあくびを嚙み殺しながら退室していく。
部屋にひとり残された香子は、ほうとため息をついた。その息で、燈台の火が大きく揺れる。命がないはずの灯火まで、香子の無意味な夜ふかしを諫めているかのようだった。
明日は朝早くに出立せねばならないのだから、いいかげん、この火を吹き消して横にならないと。
そうは思えど、止められるものではない。あれは必要かしら、これも持っていったほうがいいのかしらと、どうにも踏ん切りがつかない。いっそ全部を抱えていきたいけれど、荷物が異様に多くなりすぎるのもいかがなものかとためらい、一度は詰めた荷を再びほどいて思案をくり返すの堂々めぐりだ。
そこまで念入りに準備をするのは、明日からの勤めに彼女が並々ならぬ決意をこめているからであった。
この日の本の中心。帝とその妃たちがおわす御所に女房として――否、妃の中でも最も高位となる中宮彰子の教育係として招かれたのである。
一介の女房として御所にあがる。それだけでも緊張するというのに、課された務めのなんと重いことか。
そんな大役、ただの寡婦であるわたくしにはとても務まりません。どうか、別のかたをお探しくださいと、香子も再三、断った。けれども、彰子の実父、ときの権力者たる左大臣の藤原道長は、その訴えに耳をまったく貸さなかった。
「多くの読み手を魅了した『源氏物語』。その作者たるあなたにこそ、中宮さまへの御進講を頼みたいのだよ、藤式部。それに、小さな娘御を抱えた身で御夫君と死別し、何かと苦労しているあなたには悪い話ではないと思うけれどね」
そんな文が幾度も届いたのだ。
こちらの自尊心と弱みとを同等にくすぐられて、恥ずかしいやら腹立たしくなるやら。三十もなかばを過ぎて、華やかな御所で帝のお妃にお仕えするなどと、想像するだけでも気後れがして仕方がないというのに――
はあっ、と何度目になるかわからないため息をついた香子は、柱と御簾の間から小さな顔が覗いているのに気づき、あらと声をあげた。これが見知らぬ童だったなら怪奇譚の始まりだろうが、さにあらず。相手は香子の産んだ、もうすぐ八歳になる娘だった。
「まあ、どうしましたか、ちい姫」
たったひとりのわが子を、香子はちい姫と呼んでいた。夫との二年の短い結婚生活で得られた大切な宝物、大事な大事な姫君であったからだ。
小さな愛娘は、肩の上で扇のように広がる黒髪を揺らして母親に駆け寄り、ぎゅっと抱きついてきた。
「お母さま、お母さま」
心細そうにくり返しながら、香子の胸にぐいぐいと頭を押しつけてくる。その連呼が途中から、もっと幼い子が言うような「おかあ……ちゃま」に変わる。
「あらあら、まるで赤子に返ったかのようだわね」
明日からしばし母親が家を離れるため、寂しがっているのだ。香子はくすくすと笑いながら娘の髪を優しくなで、その感触をいとおしむ。
香子とて、わが子と離れたくはなかった。が、寂しがる子をまのあたりにして逆に、わたしがしっかりしなくてはという気持ちのほうが強くなっていく。
贅沢が言える境遇ではなかった。
香子の父親は中流貴族で、母親は早くに病没。同腹の男きょうだいは弟ひとりきりで、まだ大した地位には就いていない。そして、親子ほどの年齢差があった夫とは、六年前に死別している。
以前、父の主君が政権から退いた際、そのあおりを食って父もずっと長いこと失職していた。その時期に比べれば、いくらかましになったとはいえ、まだ安心できるほどでもない。そこに宮仕えの話が降ってわいてきたのだ。いくら気が進まないといっても、これを断る手はない。
「大丈夫よ、大丈夫。遠い西国に旅立つわけではありませんもの。同じ都のうちにいるのですからね。何事かあらば、母はすぐにちい姫のもとに飛んで帰ってきますとも」
「本当に?」
そううまくいくとは限るまいに、「本当ですとも」と香子は自信たっぷりに告げた。おさな子は涙に濡れた目でじっと母をみつめ、にこっと無邪気に微笑んだ。噓をついたことで香子の胸は痛んだが、他にどうしようもない。
少し落ち着いてきた娘は、涙とは違う輝きを瞳に宿して母に尋ねた。
「お母さまは御所で主上やお妃さまにお逢いするのよね?」
「そうね、中宮さまにお仕えすることになれば、主上のお姿をお見かけする機会もあるかもしれませんね」
「主上はどんなおかた?」
「もちろん、素敵なかたよ。七歳のみぎりで即位された主上も、もうすぐ二十八。民草のことを常に考えてくださる、聡明で心優しい、まさに理想の天子さまだそうですよ」
この話はすでに何度かしていた。ちい姫のほうもそうとわかったうえで、ただ母の声を聞いていたいがために問いかけているのだろう。香子はそんな娘の気持ちをくみ、静かに言の葉を重ねていった。
「そして、中宮さまはもうすぐ二十歳。まさに花の盛りのお年頃で、まるで男びな女びなのような、お似合いのおふたりに間違いありませんとも」
「男びなさまに女びなさま……」
ひいな遊びに用いる雛人形を思い浮かべ、ちい姫は紅葉のような可憐な手で両頰を押さえ、ふふふと笑った。香子もいっしょになって、うふふと笑う。
つんつんと指先でつついた娘の頰はふっくらと柔らかく、この子のためにもしっかりしなくてはと、香子は改めて感じ入ったのだった。
(次回に続く)
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